m.c.A・T『なんて言うんですか、こんな音楽感』第12回〜居候生活が終わりを迎えたぜっ!

連載・コラム

[2020/7/28 12:00]

ボンバヘッ!でお馴染みのヒット曲『Bomb A Head!』のほか、DA PUMPの育ての親としても知られるm.c.A・T。日本屈指のプロデューサーの自伝的連載がスタートだぜっ!


東京でデモテープを送る日々

 さて、前々回、前回と昨今のどうしても避けて通れない話題に触れてきましたが、そろそろ本題に戻りましょうかね。まだまだ触れたいことは山積みですけど。

 1980年代中盤の音楽界はいろんな意味で実験的な試みがたくさんあって、当時アマチュアだった自分もとても心がワクワクさせられた。海外ではいよいよプリンスが『Purple Rain』の大成功で大スターに仲間入り、マイケル・ジャクソンは『Thriller』でMVの概念を吹き飛ばし、一部の人のものだったヒップホップがRun DMCの『Walk This Way』でエアロスミスとコラボして大ヒット、ラップが市民権を得た瞬間をみせてくれたりも。

 ダンスミュージックではハウスやグラウンドビート、そしてニュージャックスイングが誕生していったなぁ。今思えばすごい時期に生きていたものだね(笑)。日本ではロックミュージシャンの佐野元春さんが『コンプリケイション・ブレイクダウン』というアルバムの1曲目のタイトル曲で、今まで聴いた日本のヒップホップで1番ポップなラップ曲をかましてくれた(自分内比)。アルバムのほかの曲はヒップホップではなかったけど、驚いたなぁ。

 そんな激動の1980年代中後半。東京の生活のスピード感やあらゆる文化を間近で経験できることが刺激的で毎日を楽しかったものの、デモテープの結果を気にしていた俺であった。結果から言えば、10社さんに送らせていただき、連絡をいただいたり、人を介してお会いさせていただいた会社は7社だった。実際に会社にお邪魔すると、ディレクターさんたちのいるデスクの脇のいくつもの段ボール箱のなかに、ガシャガシャっとすごい量のカセットテープがあったっけ。「よくこのなかから自分のを聴いてもらえたな~」というのが正直な感想だった。

 各社のディレクターさんはちゃんと音源を聴いてくれていたようで(当たり前か)、感想や的確なアドバイスをいただいて、田舎者の自分には随分とためになった。いくつかの会社の方に前向きなご意見もいただいたので、「即デビューかっ!」ってまたぬか喜びしたけれど、当然そんなことはなかった(笑)。また勝っちゃん(中川勝彦)に「焦りすぎない!」って言われたような……。しかし、俺に興味をもってもらえたのはよかった。

 そのあと「人に曲を作ってみる気はある?」とか「コーラスやってみる気はある?」とか考えてもいなかった可能性について提案していただいたり、実際に曲を作らせていただいたりもしたけど、そのときに採用された曲はなかったと思う。その頃、俺の心のなかでは自分に興味をもってくださったディレクターの方のうち2名に絞られていて、おふたりとも本当に俺のことを考えてくれていたんだけど、ぶっちゃけ「どうしたものか。ここで選択を間違えるととんでもないことになるのではないか!」とすごく悩んでた。そりゃ悩むよね。

勝っちゃん宅の居候から卒業! 本当の理由は……!?

 一方で、この頃に俺は勝っちゃん宅の居候から卒業することになった。優しい勝っちゃんだから喧嘩とかそういうことではなく、これから人生の選択をすることになるのだからひとりで生きる覚悟が必要だろう、と。これが俺の当時の想いだったんだけど、実は決定的な理由がほかにもあった。

 猫が大好きな勝っちゃんは綺麗な猫を飼っていたんだけど、その猫が妊娠してたのね。相手は誰かわからないけど(笑)。で、借りていた俺の部屋の押し入れで出産が始まった。たくさん産むんだね~。猫の出産初めてだったからとても驚いた。5〜6匹は生まれたんじゃないかな。「ミ~、ミ~」ってちっちゃい赤ちゃん子猫はめちゃ可愛かった。が、育つのも早い。同じ部屋なものだから好かれちゃったのか、やたらと寄ってくる。仕事に影響する。楽器を畳に直において仕事してたから、熱を持ってる楽器がお気に入りの場所になっちゃってさぁ大変! ある日、外出から帰ったらミーミーちゃんたちが楽器と譜面に大量のおしっこしちゃってて! 怒れないよね~、ミーミーちゃんだから。

「あ~、これは無理かも~」

 これが居候卒業の本当の理由でありました(笑)。

m.c.A・T

1993年に『BOMB A HEAD!』でデビュー。ライブ活動と並行してプロデューサーとしても活躍し、DA PUMPのプロデュースを手がけて一世を風靡する。現在もさまざまアーティストへの楽曲提供/プロデュースワークを行う傍ら、ライブ活動を展開している。