河原真(ROCK'A'TRENCH、BIGNOUN他)のカープ愛【カープと私〜広島東洋カープファンによる9打席連続企画〜】
【祝】広島東洋カープ25年ぶり優勝!
実に25年ぶり(!)のセ・リーグ優勝を果たした広島東洋カープ! この特集では、日本中を熱くしてくれたカープに敬意を表し、音楽界・エンタメ界のカープファンからの愛情あふれる「カープと私」エピソードを9打席(9日)連続で公開します。10月12日からは32年ぶりの日本一を目指し、クライマックスシリーズのファイナルステージに挑む彼ら。まだまだカープは止まらないっ! カープ カープ カープ広島!広島カープ!
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河原真(ROCK'A'TRENCH、BIGNOUN他)
『がんばれカープ!俺も頑張る!これがあるだけで充分なんです』
広島県出身の僕にとって、「カープを応援する」ということはごく自然で当たり前のことでした。家族、親戚、近所の人たち、誰もが夢中になって応援していて、野球というスポーツであること以前にまず「カープ」という大きな存在が生活のなかにありました。つまりそれが野球じゃなくても、もっと言えばスポーツですらなくても僕はカープを好きになっていたと思うし、広島で生まれた多くの子供たちがそうだと思います。現に広島では「昨日カープ観た?」とか「来週カープ行くわ!」という会話が今でもあります。「カープ」は生活の一部なんです。そして、僕らの”夢”そのものです。
僕が応援し始めた、というか選手の名前を覚え始めたり、野球のルールなどを少しずつ知りながらカープを見始めたのは1988年。山本浩二、衣笠祥雄というふたりのスーパースターが引退して間もない頃でした。当時の主力といえば、高橋慶彦、正田、長島清幸、大野、北別府、川口、津田……などなど今考えても魅力的で個性的な選手ばかり。1980年代の黄金期のメンバーです。そして3年後の1991年に僕の人生唯一(それまで)の「優勝」という衝撃を味わいました。
その衝撃から25年が経ち、当時10歳だった僕は35歳になりました。
18歳のときに住まいが東京になり、それまでは自然で当たり前で生活の一部だったカープとの距離感に変化が生まれました。街を歩いたり、テレビをつけたり、まわりの友達と話したりするだけでカープの情報が入ってきていたそれまでと違い、能動的に求めていかない限りカープがどんどん遠ざかっていくという環境になってしまいました。そして、それにより自分にとっての「カープ」という存在の大きさを思い知ることになります。ちょうどその頃からカープは低迷期に突入。毎年Bクラスというシーズンが続きました。そんななか、東京ドームや神宮球場に何度も足を運びました。そこには故郷の匂いがありました。というか、そこはある意味「広島」でした。カープを応援することで、自分が広島の人間だということを改めて認識するし、ちょうど同い歳くらいのカープの選手達が奮闘する姿を自分に重ね、自分ももっと頑張ろうと多くのパワーをもらいました。
もうそれだけで本当は充分なんです。「がんばれカープ! 優勝目指してがんばれカープ! 俺も頑張る!」これだけで、これがあるだけで充分なんです。それが……本当に優勝してしまって……そんな大きなものを受け止めきれない毎日です。テレビで胴上げやビールかけを見ても、それが自分の生きている実世界での出来事だと確信を持てていない感じというか。さらに今回の優勝は球団史上最高の成績で、15年連続Bクラスの姿は見る影もありません。2位と15ゲームとか圧倒的な大差をつけての優勝。これは現実なんでしょうか? 大掛かりなドッキリか何かじゃないかと思ってしまうほどです。
と、いうわけでこの原稿を書いている時点ではまったく気持ちの整理がついていない状況です。
1945年に広島の街に原爆が投下され、そのわずか5年後の1950年に誕生したカープ。「復興のシンボル」として愛され、資金難で球団存続が危機に陥ると市民が募金をし、それを救い、広島の土地とともに発展してきたカープ。その歴史が僕らやもっと若い世代や子供たちにも脈々を受け継がれ、皆がチームを家族のように愛し、温かく、時には厳しく、応援し見守ってきました。決して他人のことではなく、僕らにとっては紛れもなく「自分のこと」なんです。
最後に緒方監督の言葉を借りて
カープファンの皆様、おめでとうございます!!!
【著者紹介】
河原真(かわはらしん)●1981年4月1日、広島県出身。2007年にROCK'A'TRENCHのベーシストとしてメジャーデビュー。2011年に活動休止したのちはBIGNOUNのベーシストとして活躍。アーティストのサポートやセッションでも活躍している。
【本企画に参加してくれた音楽界・エンタメ界の赤ヘルたち】
・石野理子(アイドルネッサンス)【10/4 UP】