【社長と音楽】豪州にてチェロ演奏家から舞台演出にシフトして大成功……才能あふれるデザイン会社の若手社長

特集・インタビュー

[2019/10/7 12:00]

チェロのおかげで……モテモテだった!?

今回の『社長と音楽』で紹介するのは、イベントの運営、企画、展示会のブースや内装などの空間デザイン業務を展開する株式会社リオエンターテイメントデザインの竹林良太社長。5歳の頃からギターを始め、その後、チェロの演奏活動に邁進してオーストラリアに留学。同国で演奏活動から舞台演出への道にシフトしてさまざまな賞を受賞したのち、帰国してデザイン会社を立ち上げたという才能あふれる若手社長だ。欧米仕込みのファンキーマインドあふれる竹林社長に音楽と空間デザインの関係性について聞いた!

株式会社リオエンターテイメントデザイン竹林良太社長

——5歳の頃からからギターを始めたそうですが、どういう流れで始めることになったのでしょうか?

完全に親の影響ですよね。エレクトーンもやらされてましたし、子どもに何か音楽をやらせたかったと思うんです。

——「やらされてる」っていう感じだったんですか!?

小さい頃だったので覚えてないんですけど、流れ的には楽器屋さんに連れて行って興味をもったから買ってあげたみたいな感じだと思います。父親が音楽好きで、特にクラシックが好きだったので、何か楽器をやらせたかったんだと思います。弟ふたりもバイオリンをやっていましたしね。

——なかなかバイオリンって手が出せないと思うんですけど、音楽偏差値が高い家庭だったんですね。

「自分がやりたいならやらせてあげるよ」っていうスタンスの父親なんですけど、今思えば「楽器をやりたい!」って自発的に言わせるように仕組んでたんだと思います(笑)。結局、僕はギターからチェロに転向したんですが、ファーストバイオリン、セカンドバイオリン、チェロがいれば家でアンサンブルができちゃうじゃないですか。たぶんそれが父親の夢だったんだと思います。

——豪華な家庭ですね……。ギターからチェロに転向することになったいきさつは?

弟がスズキ・メソード(※バイオリニスト鈴木鎮一によって創始された音楽教育法。国内外で広く活動が展開されている)の教室に通ってバイオリンをやっていたんですが、その演奏会ですごく感動したんですよね。子どもたちがみんな本当に楽しそうで、僕もやってみたくなって。ただ、負けず嫌いの僕はどうしても弟がやってるバイオリンよりデカい楽器をやりたかったので、チェロを選んで(笑)。

——チェロのおもしろさはどんなところだと感じましたか?

やってる人が少なかったから、チェロを持ってるだけでモテる(笑)! 道でおじさんに「珍しいね、チェロ弾くんだ」って声をかけられたりもしましたし。もちろん演奏も楽しくて、教えてもらっていた先生に言われた「大きな風船をつくるイメージで弾きなさい」っていう言葉をよく覚えています。ひとりではなくみんなで音の塊を作って、みんなで少しずつ風船を大きくしていくイメージで演奏しなさいと。それが毎回できるわけじゃなくて、本当に一瞬だけその風船を感じるときがあって、そのときの鳥肌が半端じゃないんですよね。お客さんを感動させるために演奏しているのに、それに自分が感動しちゃうというか。与えているだけじゃなくて、自分も与えられてるっていうのが、演奏していて好きなところでした。今カッコいいこと言ってますね(笑)。

チェロを演奏していた頃の竹林社長。国内では長野オリンピックの記念コンサートや阪神大震災の1000人のチェリストによる復興支援コンサート、海外でもオーストラリアのほかヨーロッパでも演奏してきたという

——モテるとかじゃなくてそういう話を聞きたいんですよ(笑)! でも演奏家を目指すのではなく、最終的には裏方にまわることになるんですよね。

そうなんです。演奏も楽しかったですが、小さい頃から映画監督になりたいっていう気持ちがあって。

——ちなみにそれはどんなきっかけで?

小さい頃に『ジュラシック・パーク』のメイキング本を買ってもらったのがきっかけですね。映像を通したら本当に恐竜がいるんじゃないかと思わせているけど、恐竜の首を動かしたり目をパチクリさせるためだけにすごい人数の人たちがいたりすることを知って。「なんて素晴らしいんだろうものづくりって!」ってすごく衝撃を受けたんです。

——裏側を見るのってワクワクしますもんね。

何万回も読みましたからね。それで自分で脚本を書いて、放課後に友達と学校で撮影したりとか、そういうのをやってたんです。高校はオーストラリアに留学してチェロのレッスンが必須科目で勉強していたんですけど、映画監督になりたいっていう気持ちがずっとあったんです。でも僕はひねくれているので、すぐに映画監督になるんじゃなくて、下積みとしてセットデザインや脚本とかいろんなことを勉強してからの映画監督じゃないとダメみたいな気持ちがあって。だから大学では舞台演出を勉強しようと。舞台に立つ側の気持ちもわかるし、照明の暑さとか眩しさとかもわかっている自分だから作れるステージというのがあるんじゃないかって。それでオーストラリアの大学で舞台演出を勉強することにしました。

——演奏は諦めた?

ヨーヨー・マと同じくらいチェロが弾けるかって言ったらそれは全然無理ですしね。その歳になれば自分の実力も客観的にみられるわけですし。

——日本に戻ろうとは思わなかったですか?

オーストラリアには小学校のときにスズキ・メソードの交換留学で行って、その経験もあって高校もオーストラリアの学校を選んだんです。基本的に留学生って、大学進学のときに日本に帰って帰国子女という枠でいい大学に入ったりするんですけど、僕はどうしても「オーストラリアで勉強したならオーストラリアの大学へ行きたい」っていう気持ちになって。そのまま進学するのは難しいんですけど、トライもしないのは嫌だったし、オーストラリアに舞台演出の勉強ができる大学もあったし、諦めたくなかったんですよね。

——大学では舞台演出のさまざまな賞を受賞したとか?

そうなんです、天才なんで(笑)。

——まぁ!

めちゃくちゃ勉強しましたからね。シェイクスピアをメインに勉強したんですけど、シェイクスピアって現地の人たちでもわからない言葉があったりして。現地の人たちも専用の辞書をひいたりしながら大変な思いをして勉強するんですけど、僕はその10倍はやらないと絶対負けちゃうと思ってたので、友達をつくるなんて考えてなかったし、やりすぎっていうくらいに勉強してました。ほかの生徒よりも明らかにがんばってたから教授からの見え方もよかったと思うんですよね(笑)。それで賞をもらったりもして。

——まさに努力の賜物ですね。

振り返ってもあのときよりもがんばったことってないですからね。ただ、大学時代もバーとかパブで少し演奏もしてました。ジャズ系のバンドにチェロで入ってジャムったりして。ジャムったその日は酒がタダになるんですよね。仕送りもそんなにもらえてなかったし、それのために行ってたところもあるかも。

——それをやりながら死ぬほど勉強もしてたってことですもんね。

パブで油絵の教授と出会って、店のなかでシェイクスピアについて教えてもらったりもしてて。そこでもちゃっかり勉強するっていう技は使ってました。(次ページへ)

手にしているチェロは1995年のWalter Mahr。このチェロで国内外のさまざまなステージで演奏してきたという。ギターは1940年代のGibsonでかなりのヴィンテージものだ。バイクも好きで、所ジョージがプロデュースするSNAKE MOTORSの初期型バイクが愛車だという