「SNAIL RAMPの作り方9:スパイダー先輩」タケムラ アキラ(SNAIL RAMP)『炎上くらいしてみたい』
1990年代後半から2000年代のバンドシーンを牽引したSNAIL RAMPのフロントマン・タケムラ アキラが書きたいことを超ダラダラ綴っていく新連載!
何だか随分とフザケた名前のつけ方だったが、とにかくバンド名はSNAIL RAMPに決まった。本当は楽器を弾きながらではない、単独のボーカルがいる4人バンドがやりたかった俺だが、「もういいじゃん。特にいないし、このままやってみて誰かいたらその時考えれば」と太郎が言い、メンバー探しに疲れていた俺は「まー、そうだな」と同意した。
20分~30分のライブをやる程度の曲数を作った俺たちは、当然のように「ライブやってみようぜ」と盛り上がった。しかし、だ。こんな急造バンドで一体どの程度のライブができるものなのか。根拠のない自信をやたらと持っていた当時の俺も、この点においてはまったく自信がなかった。
「ライブはやりたい、しかし誰にも見られたくない」
もし、俺が後輩のバンドマンからそう相談されたら「お前ら、辞めちまえぇぇえ!」と一喝したくなるような、そんな思いを抱いていた。
そこでまずは千葉でライブをやることにした。都内から1時間ほど離れた地であれば、友達が来ることもない。と言うか、そもそも呼ばなきゃ友達だって誰も来ないんだから、都内でライブをやり、誰にもインフォしなけりゃいいだけの話し。だが、そういう無駄な詰めだけはキッチリしているのが俺の特徴だ。
しかし誰も呼ばないとなると、ライブハウスのチケットノルマ20枚~30枚(3万円~4万円)が重くのしかかる。お金のなかった俺たちに、この負担はキツい。そこで俺は千葉LOOKに電話をしてみた。
「えーと、これからSNAIL RAMPと言うバンドを始めるのですが」と、これまでのバンドがどんな活動をしてきたか、とうとうと説明する俺。挙げ句の果て、厚顔無恥と言う言葉がピッタリの俺は最後に「ライブをやらせてほしいのですが、ノルマはまけてほしい」とお願いした。
マジで意味がわからん当時の俺。俺がこんな電話を受けた側だったら、「おととい来ていただけますでしょーかー」とかん高い声を発し、バレーボールのスパイクを打つように受話器を叩きつけたろう。
しかし、このときに電話を受けてくれた千葉LOOK店長の斎藤さんは神だった。
「あーそー。じゃあ10枚でいいよ」
斎藤さんは嫌な声を出すわけでもなく、そう言ってくれた。電話後、「LOOKの人、超いい人だったわ! ノルマ10枚でいいってさ」と俺がメンバーに報告すると、2人とも「おー、よかった」と喜んだ。
こうしてSNAIL RAMPの初ライブは、1995年7月2日千葉LOOKでひっそりと行われた。
そして2回目のライブは8月、富山県富山市のライブハウスだった。これは太郎の地元が富山ということでブッキングしたライブ。ステージ上も4畳ほどしかないような、3人の俺たちでもギュウギュウに感じる小さなライブハウスだった。地元のチーマーの子たちがやっているバンドとのイベントだったのだが、そのひとりの自己紹介はいまだに覚えている。
「今日はよろしくです! 俺、スパイダーです」
スパイダー……? チーム名ではない、個人名だ。スパイダーと名乗る人がいる、というカルチャーショックを受けている俺を置き去りにするように、彼の後輩たちは「スパイダーさん、こんちわっす!」「スパイダーさん、お疲れ様です!」と、スパイダー=木村もしくは佐藤、程度の気軽さで「スパイダー」という名を口にし、我先にと挨拶をしている。
「スパイダー」という単語があれほど飛び交う現場に出くわしたのは、人生でこのときだけ。しかも付け加えるならスパイダー、めっちゃいい奴だった。打ち上げも一緒にやり、すっげえ楽しかったのを覚えている。
もともと酒が飲めない俺は、当然のように打ち上げでも1滴も飲まなかったのだが「酒を飲まずにあのテンション。あの東京の人、絶対クスリやってた」と噂になってたと聞いたのは、帰京から半年後ほど経った日。
スパイダー、また会いたいなぁ。