「SNAIL RAMPの作り方15・自堕落な下北生活とTHE BLUE HEARTS」タケムラ アキラ(SNAIL RAMP)『炎上くらいしてみたい』
1990年代後半から2000年代のバンドシーンを牽引したSNAIL RAMPのフロントマン・タケムラ アキラが書きたいことを超ダラダラ綴っていく新連載!
1995年7月に誰にも言わずに初ライブをやり、8月に2回、9月~12月で7回ほどライブをやったSNAIL RAMP。この間にデモテープを発売し、意外にも聴いてくれる人たちがそこそこいたことは前回までに書いたが、依然としてライブの動員には反映されず、チケットノルマの20枚を売るのがしんどく感じるほどだった。
時にはフロアに数人(しかも対バンのメンバー)しかいない状況でのライブも当然のようにあり、大抵のバンドが通る試練の道真っ只中を歩んでいた。かと言って大した悲観もなくバンドを楽しんでいたのは、紛れもなく俺たちがバカだったからだ。特別なオリジナリティをもつバンドでもなく、当然のように動員もないSNAIL RAMPを「いや~、スネイルいいよ」と言ってくれる友達が数人だけおり、それを真に受けて「俺たちのやってることは間違ってない! でも人気がないのは何かのタイミングが悪いだけ!」などと全力で責任転嫁しながら週2回のリハスタ、月2回~3回のライブを重ねていた。
1995年9月には下北沢の屋根裏というライブハウスの店長・末岡と知り合い、同い歳だったこともあり意気投合。しばらくは屋根裏をホームとしてライブをやることになる。この時期、屋根裏でライブをやればSCAFULL KINGやコールタール、JHONNY POWERSといった面々と屋根裏でそのまま打ち上げ、末岡と仲がいいのをいいことに傍若無人に騒ぎ立て、朝になるまで絶対に帰らない掟があるかのような日々を送っていた。
で、そのまま下北沢の友達宅に2、3泊。そこではみんながお金を大してもっていなかったので、食事をするときでも「お金はもっている人が払う」という原始共産的な生活を送っていた。そういえば静岡の雄・GOOFY'S HOLIDAYの遠藤と知り合ったのもこの頃だ。
そしてこの下北沢屋根裏では、とんでもなく重要な出会いがあった。この出会いがあるかないかで、俺の人生は確実に違ったモノだったろうなという程の出会い。
ここまで書くと、勘の鋭いアナタは「あ~、”これが今の嫁さんだ”パターンだな」と思うだろう。
全然違う。屋根裏でのライブの日、ちょくちょくライブに来てくれてる友達が「紹介したい人がいる」と言い、ひとりの女性、というか女の子を連れてきた。その人は「ジャグラーの鉄羅(てつら)です」と名乗って名刺をくれた。
「ジャグラー!!!」
俺が自分勝手に運命を感じてしまうほどに、その会社名には多大なるインパクトがあった。そもそも俺がPUNKというものを知り、バンドにのめり込むキッカケになったのがTHE BLUE HEARTS。俺が中3だった当時はまだメジャーデビュー前だったが、ラジオから流れてきたTHE BLUE HEARTSの『人にやさしく』に俺はえらい衝撃を受ける。
どうしてもこの音源が欲しかったが、メジャー流通もしていないために近所のCDショップで買うことはできず、どうにかこうにか調べて新宿のお店で買えることを知った。そしてCD1枚買うために中学生が新宿に行き、ブツを手に入れる。急いで家に帰り、そのCDをかける。これまでテレビから流れてきていた小綺麗な音とは真逆の、荒々しい音の塊。飾り気がまるでないその言葉は生々しく、すべてが腑に落ちていく。それからというもの貪るように聴き続け、貪るように歌詞を読み、ライナーにあるクレジットまで読み続けた。
そこにあった会社名、それが「ジャグラー」だった。
この人がジャグラーの人なのか? 興奮と意外な展開に驚きながら、俺は目の前のわずか1コ年上、26歳の女の人をボーッと見つめていた。