「SNAIL RAMPの作り方16・ジャグラーがやってきた」タケムラ アキラ(SNAIL RAMP)『炎上くらいしてみたい』
1990年代後半から2000年代のバンドシーンを牽引したSNAIL RAMPのフロントマン・タケムラ アキラが書きたいことを超ダラダラ綴っていく新連載!
中学3年で初めて聴き、その後の俺の人生を決めてしまったといってまったく差し支えのないTHE BLUE HEARTS。最初に聴いた曲であった『人にやさしく』のクレジットにあった「ジャグラー」の文字、それがレコード会社なのかマネージメントなのかもイマイチわかっていなかったが、とにかくTHE BLUE HEARTSと密接に関係した会社であることは、中学生の俺にもわかった。
「俺がもしバンドをやることになったら、とにかくこのジャグラーって会社と契約をしよう! 何の会社かよくわかんねーけど」と決めた15歳の俺。THE BLUE HEARTSでPUNKを知り、その手のさまざまなバンドを聞き漁り、ライブハウスに出入りするようになり、やがてバンドを始めた。もちろん最初はコピーバンドだ。高校の文化祭でライブをし、地元のごくごく小さなライブハウスで仲間たちと企画ライブもした。21歳くらいから都心のライブハウスにも出始め、バンド仲間も増えていった。『人にやさしく』を聴いてから、10年経っていた。
今、下北沢屋根裏の入り口前にジャグラーのスタッフだという女性が立っている。歳も俺のひとつ上の26歳という、業界的にはなんの力もないただの小娘(失礼)だったが、俺的には「キターーーー!!」だった。これで俺たちも売れちゃう!第2のブルハとして人気が出ちゃう!俺たちは有頂天になってその日のライブをやった。
しかし彼女は「あなたたちと契約したい」と言って多額の現金を積み上げるどころか、ライブを観ると特にホメることもせずそのまま帰っていった。
「ま、初回はあんなモンでしょ」
俺たちは、ガッカリしたのがバレないよう精一杯強がった。彼女はそのあとも何回かライブを観に来ていたようだが、ジャグラーとバンドの間には何の進展も生まれなかった。なんだか肩透かしを喰ったような形だったが、仕方ない。というか観に来た人間がジャグラーのスタッフというだけで、こちらが勝手に舞い上がっただけだった。
しかし、その年の大晦日は下北沢屋根裏のオールナイトイベントにも呼んでもらい、確かカウントダウンのひとつ前の枠といういいタイミングでライブをさせてもらった気がする。
「結成1年目にしちゃ上出来でしょ」
そう自画自賛しながら1995年を俺たちは終えた。しかしここまで書いて、重要な事件を急に思い出した。「思い出した」で片づけてはいけない、忘れちゃいけない出来事だ。
記憶のなかでは、そこそこ順調に進んだ結成1年目という意識が強かったが、とんでもない。結成メンバーであり、SNAIL RAMPの命名にひと役買ったドラムのタクローが1995年の9月だか10月くらいに「バンドを辞めたい」と言い出したのだ。俺と太郎にとって、それは青天の霹靂だった。
あの頃のバンドに辞めたくなるような出来事や空気はなかった。人間関係が悪いというようなこともなかったはず。でもタクローは「今年(1995年)いっぱいでSNAIL RAMPを辞める」と言った。今となっては理由は覚えていないが、「ちょっと違うなぁと思って」とかそんな感じだったような気がする。
俺はタクローの音楽に対しマジメではあるが毒っ気があるところや、世間一般とは違うリズムで生きている感じがとても好きだったので、ものすごく残念だった。でも仕方ない。ここでバンドを止める訳にはいかない。俺は周囲の友達に「誰かドラムいないかな?」と片っ端から訊いて回っていた。すると現在バンドをやってはいるものの脱退しようと思っているドラマーがいるという。しかもそいつはSNAIL RAMPに興味をもっているというじゃないか。
彼の名前を聞いてはみたものの、あだ名なんだか本名なんだか一瞬わからなかった。だがとりあえずその名をメモしておいた。名前は石丸。愛すべきポンコツ人間の名前を初めて聞いた瞬間だった。