「ギタリスト、チン中村から米田AKIOへ変わる〜SNAIL RAMPの作り方・27」タケムラ アキラ『炎上くらいしてみたい』

連載・コラム

[2019/10/11 17:00]

1990年代後半から2000年代のバンドシーンを牽引したSNAIL RAMPのフロントマンであり、キックボクシングで日本チャンピオンにまで上り詰めたタケムラ アキラが書きたいことを超ダラダラ綴っていく新連載!


このコラムもちょっと道草を喰っちゃったけど、主題でもあるSNAIL RAMPの歩みに戻ろうか。以前に書いたが、ヘルプのギター中村(数年後、銀杏BOYZのチン中村となる)とともに行くはずだったアメリカツアーも消滅したため、必然的に中村を野に放つことになったのが1997年1月だか2月。あ、今急に思い出したが、自分のレーベル「SCHOOL BUS RECORDS」を立ち上げたのが、1996年12月後半くらいだった気がする。立ち上げたとは言うものの、この頃は何もリリースしておらず「俺、レーベルやるわ。名前はSCHOOL BUS RECORDS!」と宣言しただけ。

しかもイカれてるのが、何もリリースしていないくせに俺はいきなりレーベルTシャツを作った。普通は何タイトルかリリースして、レーベルとしての認知・地盤が整ってからTシャツを作るんだと思うが、そんなのまどろっこしかった。とりあえず50枚ほど作り、ライブ中のMCで「俺レーベル作ってさ。Tシャツも作ったから」と話してライブで売り出した。これが不思議なことに買う人がいるんだよね。レーベルの実体なんてこのときはまだ何もないのにさ。自分で言うのもアレだけど、こんなのちょっとしたサギだよ。

そんな感じでTシャツを売るというだけのレーベル活動をしながらも、SNAIL RAMPのシングルを我がレーベルSCHOOL BUS RECORDSからリリースしようかなと考えていた。でも俺たちには今、ギターがいない。1997年4月上旬にはレコーディングを済ませ、その後に名古屋ダイアモンドホールでのイベントライブ、そしてアメリカから来るFALLING SICKNESSの日本ツアーサポートもしなきゃいけない。

またギター探しか……正直それにウンザリもしていたが探さなきゃ仕方がない。ただ俺のなかでは「アイツがいいじゃん」と思うやつがいた。1回だけSNAIL RANPとして一緒にライブをやった米田(AKIO)だ。あのときは「ボーカル募集」に応募してきた米田だったが、もともとはギタリストで機材にも興味がある。弾きながらでも歌えるだろうし、ちょうどいいじゃん!と。(次ページへ)