「佐賀の恐怖(前編)~SNAIL RAMPの作り方・44」~タケムラ アキラ『炎上くらいしてみたい』

連載・コラム

[2020/10/28 12:54]

1990年代後半から2000年代のバンドシーンを牽引したSNAIL RAMPのフロントマンであり、キックボクシングで日本チャンピオンにまで上り詰めたタケムラ アキラが書きたいことを超ダラダラ綴っていく新連載!


1998年秋に行ったセカンドアルバム『Mr.GOOD MORNING! TOUR』も中盤を越え、西日本ブロックへのスケジュールが始まった。スケジュールを見ると、10/8岡山ペパーランド、10/10福岡ビブレホール、10/11佐賀ガイルスと続き、その後広島、神戸、京都、浜松と帰京していく行程だった。

このスケジュールを今見返すと、「あれ? 名古屋や大阪は? っつーか東京でやってないのかよ!!」と思うが、浜松後に帰京し、少しのインターバルをおいておそらく東名阪のクアトロツアーをやったんではないかなと思う。つーかファイナルは渋谷クアトロだったので、名古屋大阪もクアトロだったんじゃないかな。でもあの頃のSNAIL RAMPに名古屋大阪のクアトロでやっても動員がヤバそうな気もするから、もうちょっと小さいハコでやったのかもしれない。

とにかくこの頃のSNAIL RAMPはライブでの動員が悩みの種だった。

2枚目のアルバムとなるとセールス数もそこそこ伸び、ライブでの動員も着実に増えてはいた。しかしツアーなどで用意されるハコもだんだんと大きくなったり、行ったこともない地方都市だったりして、

「え……俺たちじゃ到底埋まらないだろ」

という不安が常につきまとっていた。ただでさえ体力勝負でもある全国ツアーは、身体だけでなく心も疲弊していく。移動の車中、1~2時間誰もしゃべらないことがあってもまったく不思議でないほど、グッタリするのがツアーだ。そんなときに、ガラガラのフロアを前にして元気にライブができるほど、あの頃の俺たちは身も心もタフではなかった。

中盤すぎのタームもそんなセクションだった。岡山まで10時間ほどの機材車移動をしてライブ、その後福岡でライブし、翌日は佐賀だ。

「佐賀かぁ、行ったことないよなぁ」

俺たちは未踏の地・佐賀に対してそれなりの期待感というか「どんな土地で、どんなライブでなるんだろう」と、ワクワクに近い気持ちをもちつつ、初めての土地でもあるし、一体何人くらいのお客さんが来てくれるのかという不安があった。

しかし、聞けば福岡から佐賀までは近く、高速で約1時間。福岡からツアーバンドを追って佐賀に観に来る人もいるらしいと聞き、俺たちはひと安心。その頃も福岡であればそれなりに人が入っていたので、流れで今日の佐賀ライブに来てくれる人もいるだろう。

そう思うと幾分リラックスして佐賀入りできた。そして「あと10~20分くらいでガイルス着くよー」とのマネージャーの言葉を聞きながら、窓の外を流れる景色を観ている俺たちは例外なく凍りついていた。

街に、人が、いない。いや、正確に言えば中心地のような箇所に人はいたのだが、本日の目的地・佐賀ガイルスに近づくたびに外を歩く人は減っていき、やがて誰もいなくなった。車内には明らかに疲労が原因ではない沈黙が重苦しく充満した。

そしてもうそろそろガイルスに着こうとするとき、俺は思い切って明るく言い放った。

「佐賀って、人住んでるのかな」

ほんと佐賀の人ごめんなさい。でもこういうブラックな冗談でも言わないと、自分が耐えられなかったんだもん。つか、そんなある意味ふり絞るように放った言葉であったが、その前の沈黙があまりに長かったために声がうまく出せず、裏返った声での、

「しゃ賀って、人住んでるのかな」

だったことも、その状況をさらに物哀しくさせた。それでも「大丈夫。夜になったら佐賀、そして福岡など近県のキッズがガイルスに集合。今夜もSKANKIN'だぜ!」と自分に言い聞かせた。まあ「今夜もSKANKIN'だぜ!」なんて思ったこともないけど。

そして本番だ。正直に言ってしまえば、行きたくはないステージだったと思う。現実ってのは、どんな怪談よりも怖いものだ。俺たちは意を決してステージに出た。

(続く)

タケムラアキラ

竹村哲●1995年にスカパンクバンドSNAIL RAMPを結成。2000年にリリースしたアルバム『FRESH BRASH OLD MAN』でオリコン1位を獲得するなど、一時代を築く。バンド活動と並行し、2001年からキックボクシングを始め、2014年10月に43歳の年齢でNKBウェルター級チャンピオンに輝く。2015年12月12日には後楽園ホールにて引退試合を行なった。SNAIL RAMPは現在、“ほぼ活動休止”中。