「マネージャーはテツラーノ①~SNAIL RAMPの作り方・61」~タケムラ アキラ『炎上くらいしてみたい』
1990年代後半から2000年代のバンドシーンを牽引したSNAIL RAMPのフロントマンであり、キックボクシングで日本チャンピオンにまで上り詰めたタケムラ アキラが書きたいことを超ダラダラ綴っていく新連載!
今回は時系列に沿った話ではなく、SNAIL RAMPの初代マネージャー・テツラーノについて書いていきたい。というのもこれを書いている本日、数年ぶりにテツラーノに会うことができて何か嬉しくてテンションが上がったからだ。
1995年に結成したSNAIL RAMPがのちにマネージャーとなるテツラーノと初めて会ったのが、恐らく1995年の12月か1996年前半。SNAIL RAMPの話を聞いたらしく、下北沢にあった屋根裏というライブハウスに観にきてくれたときだ。
当時は俺が24歳、彼女はひとつ歳上なので25歳だったか? ジャグラーというマネジメント事務所に勤めているが、自分で見つけてきて担当したアーティストはまだいない、いわば駆け出しのマネジャーだったはずだ。そのジャグラーにはSNAIL RAMPまわりにいた友達がバイトで入っており、そこからの話を聞いて観にきてくれたようだった。
当時のSNAIL RAMPといえば、ライブをやってもお客さんはみんな知り合い。半ば身内ノリのライブをやっているようなヌルいバンドだったはずなのだが、そんなバンドをよく観にきてくれたなぁと今でも思う。
そもそも俺がPUNKを聴くようになったきっかけは、中学3年のときにTHE BLUE HEARTSをラジオで聴いたことなのだが、そのあとに買ったCDのクレジットに「マネジメント:ジャグラー」の表記を見つけて「俺も今後バンドをやってもしメジャーデビューとかになっちゃったら、マネジメントは絶対ジャグラーにする!」と勝手に意気込んでいた10代を過ごしていたので、実際に目の前にジャグラーの人間が現れたときには「え? ホント?」と驚きしかなかった。
当然、その日のライブは有頂天で終えた俺たち。その後に麻布の焼肉屋か寿司屋に連れていかれてとにかく高いものを食べさせてくれたうえで「契約したい」という言葉をかけられるまでを夢想していたのだが、そんなのはまさに夢物語。「お疲れさまでしたー」という言葉だけを残して、テツラーノは打ち上げにも出ず帰宅していった。
俺たち3人はガックリしながら、1人1,000円という低予算で設定されているライブハウス屋根裏の打ち上げセット、発泡酒もしくはライブハウスの水っぽいジュースにポテトチップスのみという、夢想していたやたら高い肉やお寿司の対極にあるようなものを結局いつものように口にしていた。
それからもテツラーノは、時々ライブを観にくるもいつまで経っても焼き肉やお寿司へのお誘いはくれなかったため「なんで契約の話がでないんだろうか」ではなく「なんで肉を食わせてくれないんだろうか」と、俺たちはちょっと間違った方向に悩みはじめていた。
そして1996年12月上旬にSNAIL RAMPのファーストアルバム『A PIZZA ALREADY』をリリースし、しばらく経ったある日だ。「打ち合わせをしたいんだけど、ちょっといい?」とテツラーノから連絡があった。「つ、ついにきた!!」と浮足立った俺たちは、遅刻しないよう約束の時間のずいぶん前から指定された待ち合わせ場所である下北沢に入っていた。俺に至っては前日だ。友達の家に泊まり込んでそのときを待てるほど当時は暇であり、ある意味、自堕落な生活をするバンドマンだったのだ。
そして約束の時間に指定された場所へと向かう俺たち。「このビルか……」と見ると、そこにはすでにテツラーノがいた。俺は前日から下北沢に乗り込んでいたはずなのに、テツラーノより遅く着くという失態をおかした。しかしそんな失態より、そして契約よりも「肉、もしくはお寿司」で頭がいっぱいの俺たちをテツラーノは店へと案内してくれた。
「おぉぉ! ここは!!」
案内されたのは、俺らみたいなモンでもその名を一度は耳にしたことがあるあの店だった。
(つづく)