「名前がおもしろすぎる」ことがきっかけでファーストアルバムをリリース【ぱいぱいでか美、桃色の半生!】第15回
「言うほどでかくないがそこそこでかい」おっぱいを武器に歌手、バラエティ、グラビアなどジャンルにとらわれず活躍するタレント・ぱいぱいでか美が自身の半生を初めて振り返る連載!
第15回:「名前がおもしろすぎる」ことがきっかけでファーストアルバムをリリース
“異質な存在”としてライブハウスで歌い踊る日々
こんにちは、ぱいぱいでか美です。気持ちいい気温の日も増えたし、たまには気分を変えて公園で原稿でも書くか〜とベンチに腰をかけたところ「聖書を読んだことはありますか?」と声をかけられてしまいました。こんにちは、ぱいぱいでか美です。
バンド時代の交友関係のおかげで、定期的にライブには出演できました。あの頃と同じようにノルマは払っていましたが、機材もアンプなどをお借りするわけでもないので、比較的優しい金額で出させてもらっていました。「歌って踊れるバンドウーマン」という自らつけたキャッチコピーと、オリジナル曲のオケが入ったCDR1枚を持って、いろんなバンドと対バンしました。オケは元バンドメンバーがおもに制作を手伝ってくれて、ほかにもまわりのミュージシャンが協力してくれました。そのおかげで活動当初から自分の曲で活動することができていたんです。
シンガーソングライター(以下、SSW)系のイベントにもよくお世話になりました。オケというだけで作詞作曲をしていないと思われてしまいがちで、舐められることも多かったです。そもそも、当時はまだいわゆる“地下アイドル”という存在が今ほどキャッチーではなく、ましてやオリジナル曲でオケを流してバンドやSSWのイベントに出る人も少なかったので異質な存在だったと思います。その後、アイドルグループ・BiSさんがしっかり土壌を作ってくれたので、だいぶ受け入れられやすくなりましたが……。本当にBiSさんは全地下アイドル、ライブアイドルにとって偉大な存在です。とはいえ楽器を持つほうが偉い・偉くないなんて音楽においてあるわけがないのに、共演者やお客さんに温かく迎え入れてもらえる日もあれば、ブッキングされたライブハウスのスタッフにすら背中を向けられたまま清算されるような、悔しい日もありました。
しかしこの突拍子もない芸名はやはり覚えやすいのか、バンドの頃と比べて明らかに反響がありました。バンド時代からぱいぱいでか美だったけど、ソロだと、イベントなどの告知をする時点でアーティスト名として「ぱいぱいでか美」なので。友人に手伝ってもらい自宅のパソコンで1枚ずつCDRに焼いた初めてのデモ音源『恋のブッキング demo』は限定50枚か100枚だったんですけど(あまりにも昔で忘れてしまいました 笑)、ライブのたびに売れていき、あっという間になくなりました。ちなみにこの音源は生写真付きで、その生写真知り合いのプロのカメラマンが無料で撮影してくれたり、この頃は本当にいろんな人に助けられて活動できていました。この頃、いわゆる“最古参ヲタク”との出会いがあって、その人がライブのたびにCDRを買ってくれてまわりのヲタク友達に配ってくれていたおかげもあり、徐々に自分を目当てにライブを観に来てくれるお客さんも増えていきました。
「名前がおもしろすぎる」ことがきっかけでアルバムをリリースすることに
ソロ活動を初めて1年経った頃、大森靖子さんから「ディスクユニオンの人がでか美に興味あるんだって。紹介してもいい?」と連絡が来ました。ディスクユニオンは、バンド時代にCDを15枚しか入荷できなかった切ない思い出のあるインディーズ系最大手CDショップ! もちろん食い気味でOKしました。するとほどなくして知らない番号から電話が。
「もしもし、初めまして。ディスクユニオンの金野と言います。僕は君の顔も知らないし音楽も聴いたことないしライブももちろん行ったことありません。でも名前おもしろすぎる! 最高!……というわけで、うちからアルバムを出しませんか?」
1発で今話してる大人はめちゃくちゃな人なんだとわかりました。不安しかありませんが今の自分にはまたとないチャンス。打ち合わせの日程を決めると、とんとん拍子にアルバムの話は進んでいきました。
そのアルバムは“人力ボーカロイド”的なコンセプトアルバムで、企画者の金野さんと縁のあるアーティストが曲を作り、私はただそれを歌うという役割でした。作詞は半分ほどさせてもらいましたが、ぱいぱいでか美のファーストアルバムでありながら、提供ミュージシャンの方々のオムニバスのような意味もある作品でした。なので、生々しい話をすると金銭的な利益はそこまでありませんが、アー写も撮ってもらえるし物販に置くものも増えるし話題にもなります。何より少なかった持ち曲が一気に増えるので、私にとっていいことづくめだったのです。
タイトルは勢いとインパクト重視で『レッツドリーム小学校』。とくになんの意味もありませんが、レッツドリームのあとにどんな言葉でもいいからつけて、と言われて小学校にしました。しかも蓋をあけると参加ミュージシャンの豪華なこと! シンガーソングライターの川本真琴さんや藤井洋平さん、スカートの澤部渡さんなどなど。どついたるねんファミリーのトムさんに総合プロデュースしていただくことになり、最初の電話は幻だったんじゃないかってくらいちゃんとした作品になったのです。それに金野さんは確かにめちゃくちゃな人ですが、とても優しくて思いつきと行動力のすさまじい音楽人だったんです。本当に適当な人だけど。
初めてのシングルとアルバムは恥ずかしいけどとびきり大切な作品になった
『レッツドリーム小学校』の制作を進めていた頃、また大森さんから連絡がありました。
「ねー! あのアルバムお金にはあんまりならんやろ? 私と金になるCD作ろ!」
ふたつ返事でもちろんOKして、大森靖子プロデュースでリリースしたのが初めてのシングル『PAINPU』でした。表題曲『PAINPU』もカップリング曲『プレイリードッグ』も大森さんの完全書き下ろし。初めて曲のデモが送られてきたときはドキドキが止まらなくて眠れないくらいでした。レコーディングスタジオをおさえることからジャケットデザイン、入稿、そのほか諸々まで何もかも大森さんがやってくれて、『レッツドリーム小学校』より先に『PAINPU』が完成。大森さんが歌唱するバージョンの両曲も収録されるため、発売当初から話題になり、今まででは考えられなかったくらいネットニュースにもバンバン載りました。
「お金になるCD」というのは当時は大森さんらしい言い方だなーと呑気に思っていたのですが、バイトをしまくっているのにノルマを払うことでカツカツになっている自分を心配してくれていたんだと思います。この頃はまだ大森さんもインディーズだったので、ライブにスタッフという大義名分で入れてもらって、音楽的な部分はもちろんのこと、そういった優しさ含めて人間としてもいろんなことを学ばせてもらいました。
大森さんが「お笑い芸人みたいにミュージシャンも付き人とか弟子制度あればいいのにねー」とおっしゃった瞬間から、私は大森靖子さんの弟子になりました、勝手に(笑)。言い続けたら今や公認ですよ(笑)!
いい流れを作っていただき、その1ヶ月後くらいに『レッツドリーム小学校』が発売。2枚を提げてのリリースイベントや新宿タワーレコードの「No Music, No IDOL?」ポスター起用など、たくさんの人にぱいぱいでか美を知ってもらうことができました。今もまだまだだけど、この2枚が本当に本当に音痴すぎて恥ずかしい……! よく修正しなかったな!というくらいの……。恥ずかしいけどとびきり大切なファーストシングルとファーストアルバムです。
そして金野さんに「私、ソフマップでリリースイベントをしたいです」とわがままを聞いてもらって迎えた当日。話題にはなっていたものの、ソフマップ動員史上最小人数を更新してしまったその日、お店の担当スタッフさんが固定電話の子機を片手にこう言いました。
「“ぱいぱいでか美さんに代わってください”って日テレの人から電話がかかって来てますよ。『有吉反省会』って番組だそうです」
絶対に、新手の詐欺だと思いました。