竹下幸之介(DDTプロレスリング)の『ニシナリライオット』第26回:「"プロレスラーになる"という夢が消えた日」後編

連載・コラム

[2020/2/14 12:00]

DDTプロレスリングの未来を担う若き逸材・竹下幸之介。そんな彼が自身の昔のブログを読み返しながらつづる、地元・西成のお話!


(前回からの続き)それからしばらくはプロレスを観るのも嫌で、この時期だけが竹下の人生において唯一プロレスから距離を置くことになった。

当時は心の底から憧れ、「この人と闘うためにプロレスラーに俺はなる!」と心に誓った選手が死んでしまった。生きる希望を失うことになってしまったが、敬愛するクリス・ベノワのことを自伝などの文献から訳し、竹下少年がまとめたブログ記事を読んであげてほしい。長文になってしまうが、偉大なプロレスラーがいたことを、ひとりでも多くの人に知ってもらいたいという気持ちから綴ったと思うので、この場で昇華させてあげてください。


2007年06月27日

340話『クリス・ベノワ』

ベノワは12歳のときに"心の師"ダイナマイト・キッドと出逢いプロレスラーになることを決意する。
ホームタウンのカナダ・エドモントンでは、中学時代からいつもリングサイド席でキッドの試合を食い入るように観ていた。キッドのカミソリのような切れ味の鋭いレスリング、スピード感、文字通りのようなガッツとスピリットに完全にシビれた。
そして、なによりもベノワを驚かせたことはキッドが自分とそれほど変わらないくらいの体格だったという事実だった。
ハイスクール時代は9月の新学期シーズンはフットボール、冬はアイスホッケー、春は陸上競技、夏はベースボールと1年じゅうスポーツに汗を流した。
雪国エドモントンでは、ホッケー・プレーヤーが学校のスターだった。
アマチュアレスリングもやりたかったけれど、ベノワが通っていたハイスクールにはアマレスのチームがなかったため近所のYMCAのレスリング教室に通った。
1日でも早くプロレスラーになりたかったから、大学には進まなかった。


2007年06月28日

341話『クリス・ベノワ②』

ベノワはハイスクールを卒業と同時にカルガリーのスチュー・ハート家の地下室でトレーニングをスタートした。
身長5フィート8-1/2(約174cm)、体重180ポンド(82キロ)の体格はプロレスラー志望の若者としてはかなりちいさいほうだったが、スチューはベノワの目をみてすぐに入門を許可したのだという。
ダンジェン=地下道場でじっさいにベノワにレスリングをコーチしたのは日本人レスラーのミスター・ヒト(安達勝治)、ブルース、キース、ブレットのハート兄弟、ハート家にホームステイしていたデイビーボーイ・スミスというすごいメンバーだった。
19歳でカルガリーでデビューしたが、地元先輩レスラーのバッドニュース・アレンの紹介で新日本プロレスへプロレス留学することになった。
新日本は憧れのキッドと初代タイガーマスクが名勝負を演じたリングだから、ベノワはどうしてもジャパニーズ・レスリングと道場での生活を体験してみたかった。
東京・世田谷の新日本合宿所に半年間、住み込んで、ほかの新弟子たちといっしょにチャンコわ食べて体を大きくした。
日本でのデビュー戦は、のちにパンクラスを設立する船木優治(現・誠勝)とのシングルマッチだった(1987年1月2日=後楽園ホール)。
新日本はベノワにダイナマイト・クリスというリングネームを与えたが、ベノワはこれをやんわりと拒否した。"ダイナマイト"を名乗るには未熟すぎるというひじょうにストイックな理由からだった。
カルガリーと日本を往復する生活がはじまり、ベノワは獣神サンダー・ライガーのライバルとしてマスクマンのペガサス・キッドに変身した。
ライガーとの闘いでマスクをはがされたあとはワイルド・ペガサスに改名。トップ・オブ・ザ・スーパージュニア(1993)、スーパーJカップ(1994)、ベスト・オブ・ザ・スーパージュニア(1995)に優勝し、日本におけるジュニアヘビー級のトップスターの座にかけあがった。


2007年06月29日

342話『クリス・ベノワ③』

ベノワは新日本のブッキングでヨーロッパ、メキシコをツアーし、ヨーロッパでは1都市長期滞在型のトーナメント大会、メキシコではアメリカン・スタイルともジャパニーズ・スタイルともちがうルチャリブレを経験した。
ECWのプロデューサーのポール・ヘイメンが「どうしても来てくれ。キミは天才だ」と毎日のように電話をかけてくるようになったため、"新日本ガイジン"のブラック・タイガー(エディ・ゲレロ)、ディーン・マレンコといっしょにECWのハードコア空間をのぞいてみることにした。
カルガリーの"スタンピード・レスリング"はこの時点すでに活動を休止していた。
ECWアリーナではベノワのジャパニーズ・スタイルのプロレスが無条件にリスペクトされた。
ECWの常連グループになったとたん、WCWがベノワ、エディ、ディーンの3人に専属契約のオファーをぶつけてきた(1995年)。ぶ厚いコントラクト(契約書) に記載されていた契約年俸はそれまで目にしたことのないような金額だった。
ベノワがアメリカのレスリング・ポリティックス(政治面)の暗部を初めて目撃したのは、このWCWとの契約書にサインをしたあとだった。
ベノワに用意されていたのは"前座"の定位置だった。ドレッシングルームのなかにはいくつかの政治的派閥があって、ハルク・ホーガンとケビン・ナッシュのグループ、スティングとレックス・ルーガーのグループ、リック・フレアーとその仲間たちといったぐあいにプロレスラーとしてのタイプめ主義・主張も利害関係も異なる複数グループが奇妙な距離感を保ちながら共存していた。
WCWとWWEが毎週月曜夜のTVショー"マンデー・ナイトロ"と"マンデーナイト・ロウ"の視聴率を争っていた時代だった。
約4年間在籍したWCWでのいちばん貴重な体験は、ブレット・ハートとのシングルマッチが実現したことだった(1999年5月23日=ミズーリ州カンザスシティー、ケンパー・アリーナ)。
この試合の5ヶ月まえ、ブレットの弟オーエンがこのアリーナで不幸なアクシデントで命を落とした。ブレットは、天国のオーエンに捧げるメモリアル・マッチの対戦相手にベノワを指名した。
ふたりはオーエンが見守るリングでカルガリー・スタイルのプロレスでぶつかり合った。
ブレットはそれから3ヶ月後にリングと別れを告げ、ベノワはエディ、ディーンら信頼できる仲間とともにWWEへの移籍を決意した。


2007年06月30日

343話『クリス・ベノワ④』

ベノワは、マジソン・スクウェア・ガーデンのリングに立っていた。
"レッスルマニア"の第1回大会が開催されたころ、ベノワはカルガリーのハート家の"ダンジェン=地下道場"で薄いマットが敷かれただけのコンクリートのフロアに顔をこすりながらレスリングの練習に明け暮れていた。
"レッスルマニア20"のメインイベントは、HHH対ベノワ対ショーン・マイケルズの世界ヘビー級選手権"トリプル・スレット"(2004年3月14日=ニューヨーク)。
ここにたどり着くまでの映像が"早送り"になってベノワの頭のなかをかけめぐった。
ベノワはこの試合のすべての動きをきっちりと記憶しているという。
リングのまんなかでHHHにクリップラー・クロスフェイスをかけた。
HHHが右手でキャンバスを4回たたいて、タップアウトの意思表示をした。
試合終了のゴングが鳴った。ここで時間がストップした。
アリーナの天井から銀色の紙ふぶきが舞い降りてきた。
リングに両ヒザをついたベノワはレフェリーから手渡された黄金のチャンピオンベルトをじっとみつめ、それからそのベルトをしっかりと胸に抱きしめた。
まるで映画のラストシーンのようだった。

1967~2007

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