グランジな新潟からアッパーな関西へ……初めてのひとり暮らし(大阪・長居 その1)〜劔樹人【あの街に鳴る音】第1回〜

連載・コラム

[2022/8/16 12:00]

エレクトロダブバンド・あらかじめ決められた恋人たちのベーシストで漫画家の劔樹人が、これまで住んできた街の思い出と、その頃の心情を綴るノンフィクション連載。リリカルな作風で人気の彼が、エモさたっぷりにお届けします。


第1回:グランジな新潟からアッパーな関西へ……初めてのひとり暮らし(大阪・長居 その1)


大阪にやってきた。

新潟県白根市(現在は統合されて新潟市)、見渡す限り田園が続く蒲原平野の農村で生まれ育った、18歳の少年。大阪市立大学という、新潟の高校生がまず誰も知らないようなわけのわからん大学に合格したのだ。

「すごい!  阪大に受かったの!? あっ、違うんだ(笑)」。友人たちはそう言った。とはいえ、どうやら関西の国公立大学では京都大学、大阪大学、神戸大学に次ぐ、地元ではよく知られた難関大学らしい。

私の通っていた高校は進学校で、卒業生の9割が大学進学をする。その多くが東京へ出て行くなか、私は頑なに関西の大学を志望することにこだわり続けた。夢も目標もない、勉強したいことも特になかった当時の私にとって、個性を主張する手段が土地選びくらいしかなかったのかもしれない。正直、今となってはなんで関西を選んだのか覚えてもいないし、当時の自分の心情を理解することもできない。どう考えても東京だろうが。

最初は阪大の人間科学部を第一志望にしていたのだが、さすがに学力が及ばずD判定しか出ないので、高校3年生の夏くらいに冷静になって志望校を考え直すと、同じ大阪の国公立大学でちょうどよさそうなところがあった。特にやりたいこともなく、「そういうもんだし」程度の意識での進学だったので、大学という場所について真剣に調べたこともない。その割に目前にあるわかりやすい目標には邁進できる猪のような性格だったため、受験勉強はがんばってしまった。結局併願もほとんど出さず第一志望にちゃっかり合格した。そこが大阪市立大学の文学部だった。

3月中旬、入学手続きのためひとり夜行列車『急行きたぐに号』(新潟〜大阪間唯一の直通電車で、今はもう廃止)に乗り、早朝に大阪に到着。新潟から大阪までは660キロある。遠いし金がかかるのでオープンキャンパスや下見に行ったことがなく、入試も難波の予備校が会場だったもので、大学を訪れるのはこれが初めてだった。

大阪市立大学のある杉本町駅に降り立ったとき、駅から大学までの道に50メートルくらいあけてローソンが2軒あるのを見て、都会はこんなにコンビニが必要なのか!と衝撃を受けた。とはいうものの朝が早過ぎたので、杉本町には新入生がいないどころか街自体閑散としていた。仕方ないので時間まで大学敷地内のベンチで寝て過ごし、勝手に大学の自由な雰囲気を味わった気になった。

オリエンテーションには下宿者向けに不動産業者が来ていた。初めてのひとり暮らし。例によって家の決め方などまったくノープランだったので、家賃以外何も考えずに即決したのは、杉本町から電車で2駅の長居駅にある、1Kで家賃は4万5,000円の賃貸マンションだった。ほかの新入生には、親も着いてきて家を決めている子が多かったが、私は新潟から新幹線はおろか特急でもない夜行列車でひと晩かけて来ているわけで、もちろん親なんて着いてこない。すべて自分の判断で相談する人はおらず、曰く付き物件を選んだとしても自分の責任だ。とはいえ高校時代は、家から学校まで自転車で片道40分かけて通う過酷な生活をしていたので、自転車で大学まで10分で行ける長居の下宿は、それだけで最高だなと思った。

いよいよ入学のために大阪に移り住んできたのは、1998年4月2日のことだ。私は高校生活の最後に、受験勉強のどさくさで生涯初めての彼女ができた。彼女は地元新潟の大学に進学で、この先は遠距離恋愛が決まっていた。その子が「つるちゃんが引っ越すときに大阪に遊びに行くよ!」と、一緒にきたぐに号に乗ってきてくれた。春の陽気の気持ちいい日だった。ふたりで大学まで行って、私はひとりで新入生ガイダンスに向かう。相変わらず特に大学でやりたいこともなかった私は、何かしらの運動部に入ろうかなと漠然と思っていたので、とりあえず体育会入会の申し込みをし、外に出たときだった。

アメフト部の話が済むとラグビー部、野球部……と、体育会をたらい回しにされてゆく。

我が高校から現役で大阪の大学に入学したのは、見事に私ひとりだった。近くに友達もいなければ、大学の情報を教えてくれる先輩などもいないので、こんなめんどくさいイベントがあるなんてまったく聞いていない。そういえば、私の生涯ベストムービーであり、台詞を覚えるほど見ていた『シコふんじゃった。』に、大学で新入生がサークルの勧誘をされる描写があった。しかし、大学のサークル情報といえば、「相撲部のまわしは洗濯してはいけないので最低」「夏はスキューバ(ダイビング)、冬はスキーみたいなサークルはとにかくチャラい」くらいしか思い出せない。

心の準備もないのでサークルの勧誘もまったく断れず、おそらく、すべてのクラブに個人情報を渡してしまったと思う。そんな感じで予定を大幅に超える時間がかかってしまった。

高校生の頃バンドをやっていた私は、軽音楽部のようなバンドサークルにも興味はあった。しかし、すでに体育会に6,000円の高額な会費を支払っていた私には、文化系サークルに入りそれを無駄にするという選択肢はない。

わかりやすくメタラーなH本くんとの出会い

高校のバンドのクラブで一緒だったTくんという友人が、料理人になるため大阪・阿倍野にある辻調理師専門学校に入り、西成区の南津守に下宿が決まっていた。彼女が帰り、未知の土地にまったく知り合いもいないひとりぼっちの私は、寂しいから毎日Tくんに会いに行こうかくらいに思っていた。しかし、一旦大学が始まると、その必要がないことがわかった。私が黙っていても、同じ学部の新入生たちが、「自分どこから来たん?」などとガンガン話しかけてきてくれるのである。日照時間が少ないせいか陰鬱でグランジな新潟県民に比べ、関西人はなんて陽気でアッパーなのだろうかと衝撃を受けた。とりあえず学内で一緒に移動したり、学食で昼ご飯を食べたりする程度の友人たちはすぐにできた。

その中のひとりに、H本くんという人がいた。

金髪のソバージュヘアに柄シャツ、常に指の出た革手袋をしている。大阪には新潟では見たこのないような珍奇なファッションの学生がたくさんいたが、そのなかでも彼は新入生ガイダンスのときから異彩を放っていたので、これはわかりやすくメタラーだろうと思って聞いてみると、案の定そうだった。パンクを聴かない奴でもパンクファッションはいるが、メタルを聴かないメタルファッションはこの世に存在しないのだ。彼はドイツのヘヴィメタルバンド・ハロウィンが好きなドラマーで、阪和線に乗って和歌山から通っていた。

H本くんはもうMRというサークルに入る気満々で、すでに幾度か通っている様子である。私はこういうときも何も調べておらず何も知らず、行動が圧倒的に遅いのだ。授業が開始になったときも、まず最初の1週間は授業選びをするものだと思い、桜咲くキャンパスのベンチで気分よく寝っ転がってシラバスを眺めていたら、同じ文学部の新入生たちが30人くらいずつ集合写真を撮っているのが目に入った。何してるんだろうと思っていたら、どうやらそれは必修科目である語学のクラスごとに、卒業アルバム向けの写真を撮っていたらしいのだ。

私は入学早々、必修科目を初回から無意味にサボった挙句、卒業アルバムにも載れないことが決定した。ていうかそもそも、新入生ガイダンスのときに受け付けていたらしい卒業アルバムの注文もし忘れた。本当にただぼんやりしているだけで何もできていない。自分の大学生活、このままでは絶対にダメだと思った。もちろん体育会に入りたいという気持ちはまだあったのだが、現状の友人たちが写真部や落研と文化部志望者ばかりで体育会との接点は作れていない現状……。

私は、とりあえずH本くんの誘いに身を委ねてみようと思った。

劔樹人

つるぎみきと●1979年5月7日生まれ、新潟県出身。「あらかじめ決められた恋人たちへ」「和田彩花とオムニバス」のベーシスト。2010年代にはロックバンド・神聖かまってちゃん、撃鉄、アカシックのマネージメントを担当。漫画家やコラムニストとしても活躍しており、2014年に発売された初の著書『あの頃。男子かしまし物語』は松坂桃李主演で2021年に映画化され、話題を呼んだ。