関西ゼロ世代・海外バンドとの対バン、初のCDリリース……ひとつの目標が叶った瞬間〜劔樹人【あの街に鳴る音】第11回〜
エレクトロダブバンド・あらかじめ決められた恋人たちのベーシストで漫画家の劔樹人が、これまで住んできた街の思い出と、その頃の心情を綴るノンフィクション連載。リリカルな作風で人気の彼が、エモさたっぷりにお届けします。
「関西ゼロ世代」や海外バンドと対バンを重ねる
私がベースを弾くバンド“Y”は、さまざまなイベントに呼ばれ、活動の幅を広げていた。
ライブハウス関係者やバンドマンたちにはおもしろがってくれる人たちも増えて、東京にも遠征するようになった(なぜか三軒茶屋のヘブンスドアというライブハウスだけだったが)。大阪のライブハウス・十三ファンダンゴは、インビジブルマンズデスベッド、detroit7といった名の知れた東京のバンドのツアーの対バンによく我々を誘ってくれた(そこから何かに繋がることはなかったが)。深夜のクラブイベントにも呼ばれるようになった(平日深夜なので客はほぼいなかったが)。
初めて岡山で行われた野外フェスに呼ばれたときはめちゃくちゃ嬉しかったが、
野外フェスだからお客が多いとは限らない。そのときは、広大な会場に数えられるくらいの人しかいなかった。
そんなこんなで結局思い出といえば、ホームグラウンドである難波ベアーズが多い。オシリペンペンズ、あふりらんぽ、ZUINOSINなど、のちに“関西ゼロ世代”と呼ばれるバンドたちと初めて共演したのもベアーズである。彼らはみんなどんどん動員が増え、東京にも進出。特にあふりらんぽはあっという間に知名度を上げ、メジャーデビューまで果たした。
彼らも同期のような存在であったが、同じく同期としてNさんも私もライバル的に思っていた京都の越後屋は、CDデビューしたあと、くるりのツアーに帯同。ZEPPやなんばHatchのような巨大な会場でもライブをするようになっていた。
そんなとき我々はというと、ベアーズの重鎮であった“キングオブスカム”ことウルトラファッカーズに誘われて、TEEM、DODDODO、ファッカーズと共演するイベントに出演する。TEEMはベアーズの店長であり、BOREDOMSや思い出波止場のメンバーである関西アンダーグラウンドの最重要人物・山本精一さんが新しく結成したバンドである。
当時の私にとっては、山本精一さんとの対バンなんて、世界の中心に来れたようなものである(実際の難波ベアーズは難波でもない、大国町のはずれであったが)。80人程度の観客が入った狭いベアーズは、私にとってどこよりも幸せを感じる場所となっていた。
ベアーズだけで局地的に注目バンドとなっていた私たちは、今度はアメリカを中心に、海外からやってくるツアーバンドの対バンによく当てられるようになる。彼らは海外からやってきてわざわざベアーズで演奏するのだから、マイナー極まりないわけのわからん音楽をやっているバンドたちである。しかし、「我々がしょぼいライブをしたら、日本がなめられる」と、勝手に日本を背負った気持ちになっていた私たちは、常に気合十分、対バンとして力を発揮していた。
ひとつの目標が叶った瞬間
そんな姿勢が良かったのか、ある日、バンドの窓口をやっていた私のところに、アメリカから1本のメールが届いた。
US・ノイズロック界の帝王とも言われるジャド・フェア率いるハーフ・ジャパニーズというと、これまで共演してきた海外のバンドとは格が違う知名度であり、そんな人のマネージャーから直々に指名があったのである。
浜松でもライブは200人ほどの人が訪れ、大盛況だった。このとき初めて、3万円という高額ギャラをもらって驚いたのを覚えている。しかしよく考えたら単発で浜松まで5人で行って3万なので、そこそこ赤字なのである。
ジャドとの縁はそれだけで終わらなかった。
私たちは、結成から3年にして初めてのCDリリースが海外から決まった。これは当初から、ギターウルフや少年ナイフのように海外で評価されることを目指していた私たちにとって、ひとつの目標が叶った瞬間であった。極めてゆっくり、道も王道から大きく外れてではあるが、どちらかというと望んでいるとおりのバンドのステップアップを私は感じていた。
しかし、私たちは3年の活動で、実質5曲しか持ち曲がなかった。なぜなら、Nさんが常に曲の完成に納得がいかず、ライブのたびに同じ曲を変えて演奏していたのだ。
私は、さっさと曲を完成させて新しい曲を作りたかったが、1曲にこだわるNさんの執念はすさまじく、5曲は永遠に完成しないサグラダ・ファミリア化していた。音源化は、ついにこの日々に終止符が打てる最後のチャンスであった。
しかし、バンドメンバーの関係は決して順調ではなかった。
大学の先輩・後輩である私たちには、大きな権力の勾配があったのだった。