TAKEMURA(SNAIL RAMP)『43歳のバンドマンチャンプ』【引退試合を振り返って(part.18)~引退式~】
1990年代後半から2000年代のバンドシーンを牽引したSNAIL RAMPのメンバーでありながら、キックボクシングの日本チャンピオンに上り詰めたTAKEMURAの自伝的連載!
支えてくれた仲間や会長たち
引退試合も無事に終わり、リング上では俺の引退式への準備が始められていた。俺はてっきり一度控え室に戻れるものかと思いリングを下りようとしたが、そんな暇はないようで「そのままそのまま!」と連盟幹部から押し留められた。
慌ただしくはあったが試合直後で昂った状態にもあり、友人知人たちがリング脇まできて勝利を祝ってくれたり労いの言葉をかけてくれていたので、そこで言葉を交わしていた。
そしてあっという間に引退式の用意は整った。リング上には団体のトップをはじめとする幹部役員の方々、そして各ジムの会長さんたち、友人の代表として対戦経験もある大月(晴明)君、練習仲間でもある笹谷(淳)君とズラリ並んでいる。
そこから1人1人、リング中央に立つ俺の所に歩み寄ってくださり、それぞれから労いの言葉と記念品や金一封を手渡してくれた。そのなかにはTeam KOKの大嶋(剛)会長もいた。大嶋会長にも本当にお世話になった。
デビューからしばらくライト級(61.23kg)だった俺は、試合のたびに10kg強の減量が必要だった。脂肪という脂肪を落とし、服はおろか靴までブカブカになるほど体重を落としてもリミットには届かず、あとは体内の水分を絞り出すしかないのだが、冬はジム内も寒い。通常のジムであれば怪我防止や減量のためにストーブなどの暖房を入れるが、当時うちのジムは「灯油代がもったいない」という理由でほとんど暖房を入れてもらえなかった。室温9度のジム内ではどんなに動いても出る汗は限られていて、切羽詰まった俺は少しでも暖かそうなキックボクシングジム『Team KOK』に出稽古に行った。
事情を察したのか大嶋会長は何も言わずに灯油ストーブを最大火力に上げ、真冬のジム内をうんざりするくらい暑くしてくれた。失礼を承知で書くが、当時のKOKは会員数も本当にわずかな、金銭的余裕はまるでないジムだった。そんな台所事情に灯油代というのは重くのしかかる。しかも俺は他ジムの選手だ。別に身銭を切ってまで面倒をみなくてもそれが当たり前だろうに、大嶋会長はそんなことを厭わずに「竹村、頑張れよ」と励ましてくれながら、俺の減量に付き合ってくれた。
和やかに進行する引退式
ライト級時代、計量オーバーをせずに済んだのは間違いなく大嶋会長のお陰だ。しかも恩に着せるようなことはまったくせず、いつも冗談交じりに明るく接してくれる。だから俺は2~3歳上の大嶋会長を兄貴分として慕っている。そして、KOK所属選手たちの会長に対する信頼度も驚くほど高い。そんな大嶋会長の人柄だろう、他団体ジムからの出稽古も多く、キックボクシング界のシルクロード的な役割すら担っている。
そんな大嶋会長が引退式で俺に歩み寄ると、
「長い間、お疲れ様でした。最後に……」
へ?最後に? 何だろう?と思ったら、
「膝蹴りを1発入れてください」
と会長自身の腹部をポンポンと叩き、俺の膝蹴りを待ち受ける姿勢を取った。大嶋会長らしい冗談で思わず笑ってしまったが、せっかくなのでコツンというレベルでは済まないくらいの強さで膝蹴りを打ち込んだ。そんな光景に後楽園ホールから笑いが漏れていたし、俺のうしろに控えていたNKB日本キックボクシング連盟団体のトップ・渡邉(信久)会長すらも笑っているのを感じた。
和やかな時間だった。そして所属するジム、ケーアクティブ川島(康人)会長からはマイクでの挨拶をいただき、最後は団体のトップである渡邉会長から挨拶をいただく段となった。
本来ならば、自分の直接の会長であるケーアクティブ川島会長の挨拶で締めるのが常だ。しかし、俺は2011年10月の初タイトルマッチ挑戦に敗れてから2015年12月まで、渡邉会長の元に出稽古し続けた。外の選手である俺を、自分の弟子たちと何ら変わりなく可愛がってくれ、根気よく面倒を見続けてくれた会長。渡邉会長という「師」に出会えたからこそ、44歳までキックボクシングを現役で続けることができたのだ。だからこそどうしても最後に渡邉会長の言葉をいただきたくて、無理を承知で頼み込み、ご挨拶いただけることになったのだ。
そして引退式、渡邉会長にマイクが手渡されると、「長い間、竹村へのご声援ありがとうございました」とその挨拶が始まった。
この後、関係者一同は信じがたい光景を目にする。
<次回更新は10月3日(火)予定!>