Kamusが身を寄せたまわりとは違う家族と、これまでの生い立ち「そのときの家族が私にとっては“普通”でした」〜【ENGAB♡AtoZ】第6回〜
唯一無二の3人組オネエユニットENVii GABRIELLA(通称エンガブ)のメンバーが愛してやまないヒト・モノ・コトについて、アルファベットのAからZを頭文字に始まるキーワードで紹介していく新連載『ENGAB♡AtoZ』。第6回はKamusが“F”を担当し、Family(家族)をテーマにこれまでの生い立ちについて明かします。
【F】Kamusにとっての“普通”だったまわりとは違うFAMILYのこと
学生時代、私の育った家庭は友達の家庭とは違っていました。だからといっていじめられたりした記憶はないけど、ほかの人とはちょっと違う目で見られていたとは思います。当時の私の家族構成は、おばあちゃんと兄と私の3人でした。この家族構成になるまでに自分でいろいろと考えて決断したので、まわりと違うことにすごく悩んだり、落ち込んだりすることはなかったです。何から書いたらいいのかと悩みましたが、この家族構成になるまでの生い立ちを綴りたいと思います。
私のなかの1番古い記憶は、父親からひどく怒られていたことです。まぁ、きっと私が何か怒られるようなことをしたのでしょう。彼はしつけの一環と思っていたのだろうけど、その頃、何かいけないことをしたときに、体罰を受けた記憶がこびりついて今でも離れません。痛い、ごめんなさい、辛い。助けてくれる人がまわりにおらず、荒んだ家庭環境のなか兄とふたりで支えあって生きていた記憶が濃く脳に焼きついています。
私の幼少期の記憶は曖昧で、痛い思い出のほかには遊園地ではしゃぐ兄の記憶もあるし、父親の友人宅でプラモデルを作った記憶もあるのですが、すべてを覚えているわけではありません。ところどころなぜか記憶が空白の期間があります。思い出せないことや思い出したくない出来事があるのだと思います。4歳くらいの頃でしょうか。記憶が曖昧な期間が少し長めにあって、その何もない暗いトンネルみたいなところを抜けた先に、おばあちゃんとの記憶があります。
重たくとらえないでほしいけど、私はその頃、孤児院にいました。家庭の事情で、父親とまわりの大人の判断のもと、兄と一緒に孤児院に預けられたのです。詳しくは聞いていませんが、おそらく母親との離婚が原因なのでしょう。
孤児院で過ごした過去と、改善されない家庭環境での日々
孤児院にときどき様子を見に来てくれたのは父方のおばあちゃんでした。おばあちゃんは月に何度か差し入れにイチゴやリンゴを持って来てくれました。おばあちゃんはとても優しく、会えるときが幸せで、楽しかった記憶があります。しかし、面会の時間は長いものではなく、気づけばおばあちゃんは帰っていきました。
おばあちゃんが帰ったあとは、何事もなかったかのように、また小さい子たちや自分より少し大きい子どもたちのなかに紛れて、兄と一緒にいつもどおりの孤児院での生活が続きます。衣食住は十分でしたが、ある日おばあちゃんと話した思い出や楽しかった遊園地での記憶がその頃の私を動かし、兄の手を引いて孤児院を抜け出しました。
今振り返ると、携帯も地図もないのによく逃げ出したもんだと思います。行くあてもないのに。どうにか街まで出て、ゲームセンターに行きました。知らない男の人がゲームをしている画面を夢中で見ていたら、夜になっていたことを覚えています。その男性が心配になったのでしょう。声を掛けられたので話をしていたら、孤児院から抜け出したことがバレて、連れ戻されてしまいました。テレビのなかのドラマや映画みたいには上手くいかないことを、悔しく思った記憶があります。
孤児院には1年くらいいたでしょうか。兄が小学生に上がった頃だったと思います。父親が兄と私を引き取りに来ました。父親に連れられて新しい家に向かうと、知らない女性がいました。父親が再婚した新しい母親でした。新しい家族との生活が1年続き、慣れてきた頃に問題は起きました。私の1番古い記憶に残る体罰です。父親が再婚したこと以外、家庭環境そのものは何も変わりませんでした。
それからは、また兄と支え合って生きる毎日を繰り返しました。再婚相手の母親は、そんな生活に耐えられずに離婚。父親が家にいないときもあり、ご飯が食べられない日もありました。でも、そんな荒んだ生活を一転させる救いの手があるのを私は知っていました。そして、その頃の家庭環境から抜け出すべく、私はある作戦を立てて行動に移しました。
平穏な生活を願い、幼いながらに下したある決断と行動
私が小学校1年生のときの夏休みの話です。おばあちゃんの家がある青森県に父親と兄と3人で遊びに行きました。そして、おばあちゃんの家で1ヵ月お世話になり、明日には帰るというときに、私はおばあちゃんに今の自分たちの状況を打ち明けて、お願いをしました。
「おばあちゃんの子になりたい」
びっくりしているおばあちゃんに、私は泣いてお願いし続けました。翌日の朝、お父さんと兄は当時住んでいた家に帰っていきました。作戦は成功したのです。荒んだ家庭環境から離れ、おばあちゃんの養子としての新しい人生が始まりました。本当に幸せな毎日でした。時折かかってくる父親からの電話で兄とは話していましたが、変わらず荒れた家庭環境で過ごしているようでした。その1年後、兄もまわりを説得し、おばあちゃんの養子になりました。
私は自分で決断し行動を起こして、新しい家族と平和に過ごすことができました。割愛した部分もありますが、これがざっくりとした私の生い立ちです。世間が思い描く“理想の家庭”や“普通の家族”がどんなものかはわかりません。私が身を置いたのは、父親と母親、兄弟で構成されているような家庭ではなかったけど、そのときの家族が私にとっては“普通”でした。
学生時代の友達は、私の家族を一般的だとは思っていなかっただろうけど、特に「変だ」とも言わなかったです。本当にいい友達ばかりだったなぁ。参観日も運動会もおばあちゃんが来るけど、だからって何か言われたこともなかったし、それが日常でした。たまに、ネットで“普通の家族”がどうだとか“理想の家族”はこうだとか書いている人を見かけるけど、これが私にとっての普通の家族です。まわりと比べて自分の家庭に悩む人がいたらぜひ自信を持ってほしい。あなたのまわりにいる家族こそあなたにとっての普通なのだから。
久しぶりに父親と再会し、過去や境遇と改めて向き合った夜
私はこのような生い立ちで、今を元気に必死に生きています。父親の話に戻ろうと思いますが、いい思い出が少なく、散々恨んでもいた父親が3年前に肺癌で亡くなりました。父親とは高校を卒業してからもずっと会うことはありませんでしたが、危篤の連絡が来たときに、「まだ話せるうちに」と思い、会いに行きました。おばあちゃんも兄も、父のもとに集まりました。
弱々しく細くなった父親の姿を見て、「なんであんなに怖いと思っていたのだろう」と当時を振り返りました。夜な夜な寝付けない父親が「どうしても」と言って聞かなかったので、ビールで乾杯し、「僕はゲイなんだ」とか、「ダンサーをやっているんだ」とか、「タカシとヒデキでエンガブっていうグループで活動していて、このふたりはもう家族みたいなもんなんだ」とか、そんな話をしました。父親はときどき微笑みながら私の話を聞いていました。
きっと元気だったら何缶もビールを飲んでいたはずだけど、父親はひと口だけ口をつけて、私の話に何度もうんうんと頷いていました。そして、父親が寝る前にひとこと、「あのときはごめんなぁ」とこぼしました。それを聞いた瞬間は、私は記憶のなかの嫌な父親を消しました。
いろいろあったけど、親は親なのです。父親と母親がいたから、今私がいてステージで踊れている。それはすごく感謝に値することだと思っています。父親は今、天国という客席からきっと、私が新しい家族と作り上げているステージを見てくれていると思います。
(Kamus)
Kamus(カミュ) プロフィール
12月28日生まれ、青森県出身。音楽ユニット・ENVii GABRIELLAのメンバーで、YouTubeチャンネル『スナック・ENVii GABRIELLA』の店子。同ユニットの振り付けを担当している。陸上自衛隊の元隊員で、衛生班・手術班に所属していた。ダンサーの夢を叶えるべく上京し、ショーダンサーやアーティストのバックダンサーをはじめ、バラエティ番組への出演など多岐にわたる活動を経験。TakassyとHIDEKiSMの共通の知り合いであったことから、ENVii GABRIELLAのメンバーとなった。
編集部からお知らせ
当サイト『耳マン』は2024年2月29日をもって新規コンテンツの配信を終了します。これに伴い、本連載『ENGAB♡AtoZ』はリットーミュージックのボーカルウェブメディア『Vocal Magazine Web』(https://vocalmagazine.jp)に移行を予定しております。詳細は追って発表いたします。これまで『耳マン』でのご愛読、誠にありがとうございました。