「銀杏BOYZになる男〜SNAIL RAMPの作り方・25」タケムラ アキラ『炎上くらいしてみたい』

連載・コラム

[2019/8/12 12:00]

1990年代後半から2000年代のバンドシーンを牽引したSNAIL RAMPのフロントマン・タケムラ アキラが書きたいことを超ダラダラ綴っていく新連載!


1996年のSNAIL RAMP的なトピックは、4月2日に下北沢SHELTERで初の自主イベントを開催してまさかのソールドアウト。そして12月5日にはファーストアルバム『A PIZZA ALREADY』をインディーズでリリースした。当初の「最終的に1,000枚も売れたら充分でしょ……」といった弱気をよそに、発売後すぐ3,000枚に到達。当時としては驚きをもって聞く数字だったので印象に強く残っているが、この後にどんなペースでセールスが伸びていったのか、まったく覚えてはいない。

わりと早い段階で桁が違うところにいき、その時代LIFE BALLというバンドが「インディーでセールス1万枚」を達してシーンは衝撃を受けたし、「俺たちが1万枚も売れることは絶対ない」とも思っていたので、SNAIL RAMPのアルバムが1万枚売れたときは本当にびっくりした。

これはメジャーでいう「浜崎あゆみ 100万枚セールス達成!」みたいなことで、俺たちにとってそれくらいのインパクトがあった。とにかく、全国流通されるアルバムが出たことでお客さんたちの反応もよくなり、東京はもちろん、地方ライブでの動員数も少しずつ伸び始めてきた。

しかし、いいことばかりは続かない。1997年の2月頃だったか、オリジナルメンバーだったギターの太郎が体調不良からバンドを離れざるを得なくなった。この頃のSNAIL RAMPは3月に約1ヵ月のアメリカツアー、そして創設したばかりの俺のレーベル『SCHOOL BUS RECORDS』からリリースする第1弾シングル『FLATFISH COMES!』のレコーディングが4月の前半、加えて4月後半には日本ツアーを行うFALLING SICKNESSのサポートで国内ツアーと、ファーストアルバムを出したばかりのバンドとは思えぬスケジュールでてんやわんやだった。

とりあえず新しいギタリストを探さなければならない。まずは以前にSNAIL RAMPとして1回だけライブも一緒にやった、米田アキオに声をかけた。その頃はすでに別のバンドに加入していたのもあり、アメリカツアーは無理だと言われたが、その後のスケジュールであればヘルプはできると。

ということは、まず来月に差し迫ったアメリカツアーでギターを弾いてくれる奴を探さなくてはならない。俺たち、というか俺は慌てて「ギター募集」を告知し始めた。まだネットがそれほど普及していない当時、方法といえば呆れるほどのアナログ。募集チラシを作ってコピー。それをスタジオやらライブハウスなどに貼りまくった。

短い期間だったが、幸いにも数人が募集に応じてくれてオーディション的なセッションを開始した。みんなとりあえずは弾ける。が、誰にするかはどっこいどっこいだった。そんななか、小柄で人懐っこそうな奴を選んだ。笑顔をよく見せてくれる奴で、決めた理由は「いい奴っぽい」から。

断っておくが、行く前から覚悟しなきゃいけないほどにインディーズバンドが行うアメリカツアーは過酷だ。毎日数時間から十数時間、車を自ら運転して移動。着いた先で毎晩ライブ。安いモーテルに泊まる時間とギャラがあればいいが、大抵ライブ後は次の地へ向けてすぐ出発。運転を交代しながら車で寝る毎日となる。(次のページへ)