ついにこのときが来た(大阪・長居 その7)〜劔樹人【あの街に鳴る音】第7回〜
エレクトロダブバンド・あらかじめ決められた恋人たちのベーシストで漫画家の劔樹人が、これまで住んできた街の思い出と、その頃の心情を綴るノンフィクション連載。リリカルな作風で人気の彼が、エモさたっぷりにお届けします。
焦りを感じる僕と、Nさん
高校時代の無二の親友・トモイキと、大学で一番一緒にバンドをやりたかった阿佐田くん。ふたりが加入したバンド“越後屋”のリーダー・藤井さんは、くるりの後輩にして、メンバーが認めた才能の持ち主だ。越後屋は、くるりが立ち上げたレーベル・NOISE McCARTNEY RECORDS所属の第1弾アーティストとしてリリースの準備が進んでいた。
まだ自分のバンドがないどころか、メンバーのあてすらない私は大きく遅れをとっていた。大学生活が始まって1年半、ずっとバンドをやることを目標としてきた私にとって、越後屋は夢のような状況にあった。
焦りを感じていた。しかし、おそらくこの人も同じように思っていたのかもしれない。
丸坊主から金髪を経てドレッドヘアへ、4回生なのにどんどん就職から遠ざかる風貌へ進化していったNさんである。
Nさんは藤井さんと同い年でもあったので、意識するところもあったと思う。彼が自分の音楽について常に考えているのは、ずっと近くで見てきた。
Nさんは本格的に自分のバンドを動かし始めた。ドラムはもちろんT本さんである。その頃はT本さんもまた、“Djamra”という激テクニカルなプログレッシブジャズロックバンドのドラマーとしてライブハウスシーンで活動していた。さらにベースにKさん、ギターに中山さんという、全員軽音楽部の4回生が揃えられた。
様子がおかしい部長・中山さん
中山さんは、私が入学したときに軽音楽部の部長だったのだが、これがだいぶ様子のおかしい人であった。
また、中山さんが部長時代、軽音楽部の夏合宿で小豆島に行ったときは。
と、その奇行は枚挙にいとまがない。
しかし、彼のギターは芸術的だった。
私は中山さんに対して、これくらいナチュラルに社会的常識を著しく欠いた人こそ、芸術方面で生きてゆくことしかできない天才なのだろうと思った。
中山さんは“かきつばた”というバンドのギターとして活動していた。かきつばたは、軽音楽部の卒業生であるギタリストの西川文章さんを中心に結成されたバンドで、難波ベアーズなどを中心に活動していた。西川さんはミュージシャンの山本精一さんやギタリストの内橋和久さん周辺のオルタナティブな即興音楽・現代音楽のシーンで非凡な才能を発揮しており、私にとってはものすごくカッコいい先輩だった。当時の軽音楽部が、公立大学のいちサークルでありながらもやたらと尖ったアンダーグラウンドな空気感があったのは、完全に西川さんをはじめとするかきつばたの影響であった思う。
一方、Kさんもファッション、ギャグ、音楽などあらゆるセンスの良さと、その飄々とした佇まいが魅力的な人で、私にとっては紛れもない憧れの先輩のひとりだった。ただ、Kさんはそこまでベースが達者な人ではなかった。このメンバーのなかでは、力量が足りていないのは明らかだった。
何度かスタジオで作業を繰り返すなかで、その物足りなさをNさんも感じたのだろう。
ついにこのときが来たと思った。
Nさんはいつか私をメンバーに誘うことも想定していたのだろう。ふたつ後輩の私のベーシストとしての可能性を見出し、さまざまな音楽を聴かせ、かわいがって育ててきた。そうされてきた自覚はあった。
準備は万全だ。その頃の私は、日々のセッションのなか、ベーシストとしての自信もついてきていたのだ。
そしていざ、4人でスタジオで音を出すことが決まった日のことだ。
中山さんのアパートで起きた衝撃の出来事
いきなり中山さんが来ないのである。中山さんは画期的に時間にルーズな人だったのだ。しかし、中山さんを呼びに行った私は、彼のアパートでさらに衝撃的なものを目にすることとなる。
寝過ごして申し訳ないという気持ちはあったのかもしれないが、それでも起きるつもりはないという強い意志が明瞭な寝言からは伝わってきた。
それでもなんとか中山さんを起こし、予定から2時間ほど遅れてようやくメンバーが揃う。しかし、いざ音を出せば、Nさんのフロントマンとしての華とセンス、駆り立てられるようなT本さんのドラム、そして中山さんの煌びやかなギター。それは私にとって体験したことのないエキサイティングな音楽空間で、すごいバンドに加入できたことに心から興奮した。
しかし。
次の練習もまた寝坊。Nさんは「中山は反省はしても改善はされない奴」だと言う。
実際中山さんはかきつばたの活動でも、スタジオはもちろん、ライブにすら現れないということが普通にあったようだ。
西川さんはそんなふうに中山さんを評価した。まあ確かに、そういう存在も高度なアートのような気もする。しかし、Nさんはそんな都合のいい解釈を求めてはいなかった。彼は中山さんの比類なきルーズさに明らかにフラストレーションを抱えていた。
また、T本さんも。
本気でバンドでの作品作りに向き合うことで、親友だったはずのNさんと衝突することが多くなっていた。
Nさんも、T本さんとは友人であり続けることを選んだのだろう。結局このバンドは、数回のスタジオ作業をしただけで空中分解状態となり、T本さんと中山さんは離脱。Nさんと私は、ふたりで新たなバンド作りを模索することとなったのである。
ちなみにT本さんは卒業後バンドを辞め、就職した。今でも私は、彼が東京に出てセッションミュージシャンになったとしたら、絶対に頭角を現しただろうと想像することがある。しかし、彼の選んだ道も素晴らしいと思う。
そして社会不適合者として抜群のポテンシャルを持っていたはずの中山さんは、今や地元の福井で有名な飲食チェーンの社長となり、事業を拡大し続けるカリスマ経営者となっている。天才ぶりは音楽以外でも発揮されたのだ。
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