平日はバイト、週末はバンドに明け暮れる日々(大阪・我孫子 その2)〜劔樹人【あの街に鳴る音】第13回〜
エレクトロダブバンド・あらかじめ決められた恋人たちのベーシストで漫画家の劔樹人が、これまで住んできた街の思い出と、その頃の心情を綴るノンフィクション連載。リリカルな作風で人気の彼が、エモさたっぷりにお届けします。
バンドメンバー5人中4人が東京ハイツに住むことに
新居である東京ハイツは、その家賃の安さとけっこうな広さ(2K +風呂トイレ別)で、かきつばたの西川さんをはじめ、過去には同じくギターの中山さん、ドラムの井上さんなど、軽音楽部の先輩であるミュージシャンたちが住み継いできたアパートである。
築30年ほどでそれなりに古くボロい上に、入居時のハウスクリーニングや修繕も業者を入れず、最上階に住む大家自ら手がけるDIYアパートであった。そのぶん、住人の自由度も高く、壁を勝手に塗るくらいで問題になったりしない。その辺が私生活は画期的にだらしないミュージシャンたちに重宝される理由であった。
室内は和室の畳張りだが、その上には大家独自の施工によってカーペットが敷かれており、ダニの繁殖にはこの上ない環境になっていた。さらに2階の私の部屋は、隣の建物の影響でまるで日の光が入らず、もし吸血鬼が実在して物件を探しているなら自信を持ってお勧めできる24時間ナイトモード仕様であった。
そんな物件なので、住人と大家は仲が良いというか、距離が近かった。
油断していると突然、勝手に部屋に入ってくるのである。
良くも悪くも、温かみのある大阪の下町の人情アパートであった。
私が住み出してからというもの、界隈のミュージシャンたちが東京ハイツに続々と集まってきた。ZUINOSINのカコイくん、neco眠るの森くん、音響アーティストで現代芸術家の梅田哲也くんなどである。さらに、なぜか私のバンドYのメンバーも続々東京ハイツに引っ越してきた。
結局、実家暮らしのリーダー・Nさんを除く全員が東京ハイツ住まいとなり、バンドのミーティングはいつも東京ハイツの誰かの部屋で行われるようになった。
これは、ひとりでいたい時間が多い私にとって非常にポジティブな話で、万年コタツと布団に服、本やCDまでが渾然一体となった私の汚部屋は人を寄せ付けないことに成功していた。飲み会のあとのめんどくさい連中が突然押しかけてくることもない。孤独を好むタイプの学生には、ライフハックとして住居のゴミ屋敷化をぜひお勧めしたい。
Nさんと他メンバーの間に生まれる謎の暗黙ルール……
メンバー4人が皆同じアパートに住むようになり、バンドは活動しやすくなったかのように見えたが、決してそんなことはなかった。バンドの発起人でありリーダーのNさんと、我々にはかなり力の勾配があった。
私、大王、Hは大学ではサークルの後輩であり、その関係はなかなか変わらない。
逆に、先輩であるTさんは普通に怒られるようになり、ここの関係だけはいとも簡単に逆転していたのであった。
Tさんはとにかくお人好しで物を言いやすいタイプなのもあったが、いざ一緒にバンドをやってみると、まわりの演奏の空気を感じられなくて即興演奏でひとり迷子になったり、展開の指示を見逃したりする。ギターの技術は間違いなく一級品の人ではあったが、バンドをやる上でNさんが怒る理由も理解できるのであった。
さて、そんな当時の私の1週間のルーティンはというと、
平日はフルタイムで環境調査の会社でアルバイト。金曜の夜になると、土日の練習のためにNさんを実家まで迎えに行かなければならない。これが車の運転ができる私か大王の持ち回りで、片道40〜60分ほどかけてバンドの機材車で迎えにゆくのである。正直、いい大人なんだから勝手に自分で来てくださいよという感じなのだが、Nさんは「これもバンドのための大事な時間」とか言うし、彼の機嫌を少しでも良くするために、我々はそれを受け入れてしまっていた。
このときの謎の暗黙のルールが、ガソリンは運転しているものが入れないといけない(料金も支払わないといけない)というものである。当時の私たちのバンドは、ノルマこそ支払うことは滅多になくなったが、潤沢なギャラがもらえるイベントに出ることなどほとんどなかったため、バンド貯金のようなものは一切なかった。なのでNさんを迎えに行くガソリン代も自腹なのである。Nさんはまったく払ってはくれない。
私も大王もお金はない。いつも500円分しか入れなかった。
そして、土日は1日10時間くらいのバンド練習でクタクタになる。終わると、またNさんを実家まで送らなければならない。このときは大体Tさん以外の若手3人が同乗した。
Nさんを送ると、やっと解放された感じがした。帰り道は3人でブックオフに寄ったり、びっくりドンキーに寄ったりして、わずかな自由を謳歌したのだった。また明日からはバイトの日々だ。