TAKEMURA(SNAIL RAMP)『43歳のバンドマンチャンプ』【引退試合を振り返って(part.3)】
1990年代後半から2000年代のバンドシーンを牽引したSNAIL RAMPのメンバーでありながら、キックボクシングの日本チャンピオンに上り詰めたTAKEMURAの自伝的連載!
現役が長い選手に五体満足な選手は少ない
「12月興行は竹村引退興行でしょ」と言う人がいたほどの厚待遇を用意された、2015年12月12日の引退試合。ゆえにそのプレッシャーの重みを感じもしたが、何とか試合までこぎつけた。
残念ながら「怪我もない万全な体調」とは言えなかったが、現役が長い選手に五体満足な選手は少ないもんだし、そこをどう切り抜けるかも含めてが試合っていうもんだ。
今までだっていろんなことがあった。
過酷な減量がたたり蜂窩織炎(ほうかしきえん)を起こしたまま試合すること3回。熱感、ダルさ、痛みに耐えながらの試合だった。担当医師からは「これは飢えた難民の人がなる病気だよ」と言われたが、ライト級時代の減量のキツさは確かにそんな境遇だった。
膝の前十字靭帯を断裂したまま試合をこなしたときは、蹴れないし、そもそも動けないしといった如何ともしがたい状態で5Rを乗りきった。試合の3日前に自動車事故に遭ったこともあった。自家用車を運転中に信号無視の車に飛び出され激突。車はお互いに廃車、俺は頭を強く打ち意識不明になった。そのまま救急車で搬送。意識が戻ってからも頭は朦朧(もうろう)とするし、当たり前だが身体中がかなり痛む。
まともにも歩けもしないし、強いダメージを受けている脳に試合でさらにダメージをもらうと、最悪死に至る。さすがにこれで試合は無理だと思い、ジムの会長に理由、状況を説明し「申し訳ないですが、試合はちょっと無理だと思うんです……」と病院から連絡。
しかし「いやぁ、俺はやってほしいな」と即答され、「この人は俺が死んでもいいと思ってるんだ」と何だか可笑しくなり、「じゃあ死んでやるか」と病院を抜け出して試合に出場した。軽いジャブをガードの上からもらっただけで脳が揺れダウンしそうになったが、何とか勝利したこともあった。
SNAIL RAMPのライブを思い出す
こうやって振り返ってみると、何だかムチャクチャなキックボクシング人生だな。でもこれがキック界の現状の一部ではあるし、逆にこの経験があるからこそ「この先の人生でも大抵のことは耐えられるな」と確信できる。
そしてキックボクサーとしてこんな状況に陥るのだから、それはバンドSNAIL RAMPにも波及する。「キックよりバンド優先」という建前を掲げていたために、キックボクシングを理由にバンドのスケジュールを変えることはほぼしなかった。
そのために試合の2日前にライブをやったことがあった。当時は減量が本当に過酷なライト級(61.23kg)で、引退時のウエルター級(66.68kg)よりさらに5.5kgも減量しなければならない階級だった。
試合までの2週間近くは、1日パン1個程度の食事で1日の仕事と練習をこなさなければならず、そういった状態になると、まず階段が上がれなくなる。2階まで上がれないのだ。力も入らないしすぐ息切れして、2階までの中間にあるいわゆる「踊り場」で1度休まないと、2階まではたどり着けない。そのくらい、肉体が弱った状態になってしまう減量をしなければいけなかったのがライト級時代だった。
減量に関する話しをし出したらキリがないので、それはまた別の機会に譲ろう。
そんな時期にライブをやるとどうなるか。自分でもびっくりしたのだが、あり得ないくらいの小さな声しか出ないのだ。俺はもともと声が大きく、それをマイクに乗せるからボーカルの出力不足を指摘されたことは一度もない。
それが減量最盛期の弱った身体だと、か細く弱々しい声を出すのがやっと。ましてやライブ中にジャンプするなどどう考えてもできっこなかった。
さすがに「ヤバいライブをやっちまった……」とは思ったが、試合の2日前。まだ体重が落ちきっていない俺は動きもしない身体を引きずって、ライブ後にそのままジムへ行くのだった。
あぁ、引退試合のことを書くつもりが回想になっちゃったな。次回こそは引退試合のことを。(続く)
<次回更新は2016年2月2日(火)予定!>