【説教バンド・ロマンポルシェ始動】掟ポルシェ『男の!ヤバすぎバイト列伝』第44回
本連載はニューウェイヴバンド「ロマンポルシェ。」のボーカル&説教担当、DJ、ライター、ひとり打ち込みデスメタル「ド・ロドロシテル」など多岐な活躍をみせる掟ポルシェが、男気あふれるバイト遍歴を語る連載である。すべての社会人、学生、無職よ、心して読め!!
【第44回】説教バンド・ロマンポルシェ始動
1997年7月15日、自分のバンド“ロマンポルシェ”を開始(当初はバンド名に「。」が付いていない。モーニング娘。を好きになる前だから)。30歳を間近に控え、打ち込み機材の使い方もあやふやなまま、見切り発車的に始めた。「俺ももうじき30だ。なんかでかいことせないかん」と映画『TATOO<刺青>あり』で竹田明夫役の宇崎竜童が言っていた台詞が頭に渦巻き、30歳になる前になにをか為さねばという強い脅迫観念の・ようなものが、俺の足許で見えない猫じゃ猫じゃの鉄板を熱く燃やしていた。鉄板の上の猫のように、無理矢理三十にして立つのだ。
バンドをやろうと思い立ったのはほかでもない、モテたかったからだ。身も蓋もないがマジそういうことなのでしょうがない。いや、モテたいんならロマンポルシェみたいなんじゃないことやんないとダメだろそれ、というまっとうな意見はさておき(さておくのかよ)……長いこと付き合っていた彼女が前年に海外移住し、日曜日にやることがなくなってとにかく寂しかったのだ。そちら方面でも俺の足許に見えない熱い鉄板が(以下略)。
人に属性というものがあるならば、自分の場合それは明らかに音楽である。それも、ストレートにカッコいいロックではない、ゲイ夫婦(疑似)による軟弱打ち込みシンセポップ、またはシスターズ・オブ・マーシーのようなドラムマシンの鳴り響くポジティブパンク(あえてゴスとは言わない)等等、ひと言で言えば安っぽい音の80年代ニューウェイブばかり聴き、ああいうのやりたいと常時バンド構想を募らせていた。だが、不器用な割に音楽的理想が確固としてあり過ぎる故、人と一緒にバンドをやれる気がせず、楽器の上手い友だちもいないし、これだけ音楽が好きなのにほとんどバンドをやった経験がなかった。
そこで生きてきたのが、テクノの打ち込みをやる目的で死ぬ思いでローン購入してあったアナログシンセとシーケンサー付きサンプラーである。テクノの隆盛により、90年代半ばにはひとりでシンセの打ち込みトラックを完パケ出来る機材が増え、譜面が読めない者にも作曲が容易になり、俺にもようやく曲らしきものが作れるようになったのだ。取扱説明書を意地でも読まない逆ケン・イシイ方式でトラック制作。機材の操作がわからないときは、壁に頭をガンガン打ち付けることでなんとかする方式とも言う。モテたい一心、岩をも貫く。
曲と曲の合間には男の生き方を間違った形で指南する「説教」を入れることにした。軟弱なニューウェイブをそのままプレイするとナメられて、ライブ後対バンした奴からお前ちょっとおっぱいアイス買ってこいや等の指令が下りがちだと危惧し、パワーマチズモな晩年の梶原一騎青年漫画的男らしさの混同説教MCをニコイチで合体させ、存在としてのニューウェイブ化を図った。演奏してるのはエレクトーンとリズムボックスなのにボーカルがおっかない顔でマイクスタンド振り回して客を威嚇しボコボコにするNYパンクのガイキチ野郎AチームSUICIDEみたいなことである。説教を入れるアイデアは、リスナーの絶対数の少ないオルタネイティブ音楽趣味をわかりやすく咀嚼し愛されやすくする意味もあった。
そしたら、ウケたのである。そう、合間の説教の部分が特に。いや、説教しかウケていなかった。1998年発売のテクノ雑誌『GROOVE』の付録CDに、ロマンポルシェのファーストアルバム『人生の兄貴分』から1曲半抜粋・収録されているが、アルバム冒頭の説教がまるまる入ってるのに対し、本チャンの曲が始まった途端にサラッとフェードアウトしやがっていた。あのとき自宅のスピーカーの前で「そりゃねえよ……」という気持ちで2分ぐらい軽く死んだことを忘れない。とはいえ、説教のところだけでも己の作るものにごく一部ではあるが世間的需要があったことは喜ばしい発見であった。
世に出たいという目論見は、そんな感じでバンド開始直後から割とうまくいった。バンド始動から1年でインディーズとはいえ他人の出資金100%でCDをリリース。で、各方面でライブをやるうちに「曲間のしゃべりが面白いので、それ風のものを文章で書いてくれませんか?」というコラム執筆の依頼が来るようになった。愛されづらい音楽の方ではなく、それをわかりやすくするための調味料だけがやっぱりウケたということだ。白米はいらないんでふりかけだけください、と言われているようなもので極めて遺憾ではあったが、原稿を書けば当然原稿料なるものがもらえるだろう。自分の書いたもので飯が食っていけるようになるなら、とりま音楽部分は後回しになってもやむなしだ。よし、やってやろうじゃないか、コラムによる説教の布教を。
「スミマセン、原稿料ハナイデス」
オーストラリア人編集長のマークがコラム連載を依頼してきた電話口、カタコトの日本語で申し訳なさそうに告げた。え、原稿料……ゼロなんですか??
「『TOKYO ATOM』ハ、フリーペーパーナノデ、原稿料ハ出ナイデス。ゴメンナサイ、ソレデモヤッテホシイ」
いや、それでも、って言われても……どうしたらいいかなこれ……。
俺に人生初のコラム連載を依頼してきたのは、『TOKYO ATOM』という豆本サイズのフリーペーパーだった。恵比寿にあった“みるく”というクラブが月イチで発行していたもので、1999年初頭のことだ。店長のルリさんは伝説のクラブ芝浦GOLDの残党で、集客二の次で頭のおかしいバンドや特殊な曲しかかけない偏ったDJを面白がって出してくれる素晴らしい趣味の人だったので、キワモノの極みであるロマンポルシェも一発で気に入ってくれて、たびたびブッキングしてもらっていた。編集長のマークは、ルリさんの公私に渡ってのパートナーであり、オーストラリア人ながら日本語のフリーペーパーの発行を一任されていた。ルリさんもマークも品があり物腰の柔らかい人で人間的に好きだったので、お金のことは抜きでもコラム連載の仕事を受けることにした。
ノーテーマでのコラム依頼だったので、まず第1回目はそのとき夢中だったプロレスの話。橋本真也と小川直也の試合に対する雑感をああでもないこうでもないとダラダラ綴ったものを提出。趣味のプロレスの話を書き飛ばせるなら金銭なんか発生しなくても問題ない。原稿をFAX送信して数10分後、電話が。マークからだ。
「スミマセン、コウイウノジャナイノヲ、書イテホシイ」
一発目からダメ出し!? 原稿料なしなのに!? なんでだよ!
「イツモ、ロマンポルシェノライブデ言ッテル説教ヲ、ソノママ書イテクダサイ」
一瞬腹が立ったが、送信したプロレスコラムを読み返してみたら確かにヤマなし&オチなし&凡庸な内容で、普段のライブの説教とはかけ離れていた上、面白みもなかった。というわけで、ライブの合間の説教を多少アレンジしてリライトし、その日のうちに再送信。今度は無事に通り、めでたく人生初コラム連載が始まった。
その後もマークはたびたび内容にダメ出ししてきた。あるときおニャン子クラブだったかのことでボケたギャグを書いたところ、
「『TOKYO ATOM』ノ読者ニハ、コノ内容ハチョット難シイデス」
と訂正の指示。読者じゃなくてマークにとって難しいだけでしょそれ!? 日本の昔のテレビ番組に引っ掛けたギャグをなんでオーストラリア人に否定されてんの俺!? よくわからない事態にこのときも腹が立ったが、よく読むと確かに独りよがりが過ぎている筆致だったように見えた。即リライトすると、
「コッチノ方ガ面白イデス。コレデイキマショウ」
とOKを出してくれた。マークの指摘はいつも的確だった。編集長として有能だったのである。俺はこういうところが幸運だ。
初コラムの担当編集がオーストラリア人のマークだったおかげで、わかりやすさを獲得したのが結果的に良かったのだと思う。書き捨てる気まんまんのプロレスコラムを初連載で書いていたら、その後何も繋がらなかっただろうことは想像に難くない。マークには足を向けて寝られないから、とりあえずオーストラリアの方角に枕を置いて寝ています。
そのうち、『TOKYO ATOM』の誌面説教を読んだ複数の出版社の人からコラム連載を頼まれることになり、2000年には文章を書く仕事だけで月収20万円を超えた。2001年6月、7年勤めたビルの窓拭きのバイトを辞め、説教コラムの原稿料やライブのギャラなど、掟ポルシェ業だけで食っていけるようになった。出版業界も音楽業界もまだ潤っていた時代のことだった。
【著者紹介】
掟ポルシェ
(Okite Porsche)
1968年北海道生まれ。1997年、男気啓蒙ニューウェイヴバンド、ロマンポルシェ。のボーカル&説教担当としてデビュー、これまで『盗んだバイクで天城越え』ほか、8枚のCDをリリース。音楽活動のほかに男の曲がった価値観を力業で文章化したコラムも執筆し、雑誌連載も『TV Bros.』、『別冊少年チャンピオン』など多数。著書に『説教番長 どなりつけハンター』(文芸春秋社刊)、『男道コーチ屋稼業』(マガジン5刊)がある。そのほか、俳優、声優、DJなど、活動は多岐にわたるが、なかでも独自の視点からのアイドル評論には定評があり、ここ数年はアイドル関連の仕事も多く、イベントの司会や楽曲のリミックスも手がける。